平日午後3時、相変わらずの賑やかな坂道を上りきり、辿り着いた『Gallery Sakura』。
あらゆる種類の人間が忙しく行き交う街だが、さすがに週のど真ん中、のんびりと絵画観賞をする者はいないようだ。
別に扇情的なものが描いてあるわけじゃない。
清楚な白百合と、暗くざわつく手つかずの荒れた藪。それだけなのに、和也は立っていられなくなった。
ヨロリと後ずさりして膝裏に触れたソファにドサリと腰を落とす。
理由の分からない鼓動を刻む胸に両手を当てて、はぁはぁと大きく呼吸を繰り返す。
「…どうしたの?」
「ひっ!!」
急に声をかけられて、体が跳ねた。
思わず出てしまった悲鳴に、慌てて口を塞ぐ。
声の方に振り向くと、1メートルほど間を開けた右側に男が一人座っている。
軽く前かがみの姿勢になって上目遣いに和也をジッと見つめていた。
浅黒い肌に整った細めの眉とたれ気味の目、スッと通った鼻筋、滑らかな頬、艶のある唇。
「すっ、すみません。人がいるって気付かなくて、変な声、出しちゃって…」
「ふふふっ、びっくりさせたね。こっちこそごめん」
柔らかな笑い声。微笑んだ唇はふっくらと柔らかそうで、小さな笑顔一つでクールな印象がガラリと変わる。
「何か、顔赤いけど…、平気?」
「はい、大丈夫です」
「そっか…」
「…………?」
男はしばらく和也を見つたままで、視線に耐え切れなくなったころようやく和也から視線を外して体を起こした。そして顔を正面に戻すと、両手を後について上体を軽く反らした。
背はそれほど高くはない。だが手足が長くて、均整のとれたスタイルをしている。
ゆったりとした黒い薄手のニットのたくし上げた袖口から、筋肉の筋が浮かぶ腕が伸び、その先のほっそりとした手と指で上半身を支えている。何気ないポーズだが何故か美しく、現実味のないその姿はまるで水彩画のようだった。
和也は初対面の男を凝視している自分に気づいて、サッと目を逸らしたが、胸の鼓動は未だ治まっていない。それどころか却って騒がしくなってきている。
そして、なぜかカラダが…、疼く。
「ねぇ、この絵、好き?」
身動き出来ず俯いていた和也に男が問いかける。
顔を上げると、男は絵に目を向けたまま横顔で続けた。
「おれ、何か気に入らないんだよね。なんであの百合、あんなに白いの?」
整った綺麗な横顔、だが、意外と男っぽい口調で口をとがらす。
「色?」
そう言われてみると、確かにそんな気もする。
でも和也はその不自然な白さに、窓の外に出たい、藪の中に飛び込みたい、なのに囚われて動けない百合の歯痒さとジレンマを感じたのだ。
「ねぇ、どう思う?」
男が再び和也の顔を覗き込む。
ゆったりとした襟ぐりから鎖骨が見えている。和也の目はその窪みに吸い寄せられた。
「ど、どうって、僕は好きです。この画家さんが、好きなので…」
「ふーん…」
男は目を絵に戻して首を傾げる。繊細な指がしなやかな首に触れている。微かに動く喉の膨らみさえも和也の視線を釘付けにする。
「どこが?」
声と同時に男は体をずらし、左腕に触れそうなくらいに体を寄せてきた。右側には円柱があり動く事が出来ない。和也は益々焦った。
「どこが好きなの?」
男が囁くようにソフトに繰り返す。
耳朶をくすぐる低い声。まるで口づけされているような…。
和也は軽いパニックに陥ってしまった。
揺れる視線を下に落とせば、男のはいているダメージ加工のジーンズから、滑らかそうな白い太腿が目に飛び込む。
「!!…なっ、なんか、すごく、工口くて、かっ、体のどっかが疼くよう、な、あっ…」
自分の言葉に驚いて再び口を塞ぐ。
「…………ぶぶっ!」
少しの沈黙の後男は吹き出して、弾けたように笑いだした。
「あははは…!」
意外と高くて、楽器の音色のような笑い声を上げながら、ソファに転がっている。
身体を二つに折り曲げて、苦しそうに身を捩って。
その様子を呆気に取られて見ていると、後ろから女性の声がした。
「先生、どうしたんですか?」
男に駆け寄るスタッフらしき女性。
「先…生?」
「大丈夫ですか?」
しゃがみ込んで心配そうに男の背中に手を置く。
男がぶんぶんと首を振る。
「む、村沖さん、何でもない、よ、んふふっ…」
「でも、何がそんなに?」
「何でもないって、大丈夫」
ようやく笑いが収まったのか、男は涙を拭きながら体を起こした。
「おれ、行くよ。何か元気が出た。ちょっと落ちてたんだけど、彼が引っ張り上げてくれた」
「おれがここに来たこと、翔には黙っといて」
「…はい」
「この事もね」
唇にあてた指がスッと伸びてきて和也の頭をくしゃっとした。
そのまま引き寄せられ、
また、会えた…
頬に唇を寄せて囁くと、男は嬉しそうな笑顔を最後に見せて、ステップでも踏むような軽い足取りで出口の方に歩いて行った。
和也はぼうっとしたままその後ろ姿を見送った。
「…お客様、大変失礼しました。あの、何があったんでしょうか?」
和也と同じようなポカン顔で女性が尋ねる。
「いえ、別に何も…、ってか、先生…って、あの人、誰なんですか?」
触れられた場所と囁かれた耳が熱くて、髪を整える振りをしてそっと押さえる。
女性は驚いたように目を見開くと、
「あら、ご存知なかったんですか? 彼は画家の 『satoshi』 ですよ」
と百合の絵を指さす。
「ええっ!?」
「ご存知ないのも当然ですけどね。ほとんど媒体には出ていませんもの。あ、どうぞ、こちらへ。失礼したお詫びにコーヒーでもお淹れしますので」
「は…い」
収拾の付かない頭のまま、和也はフラフラと女性の後に続いた。
ホールのゲスト用の椅子に座り、館長・村沖舞子と記された名刺を眺めていたら、本人が慌てた様子でコーヒーを運んできた。