アナウンスが聞こえる。うっすらと開けた目に光が差し込む。機体はすでに停止しており、現実的な騒めきが周りに渦巻いている。
翔はもう一度、ぎゅっと瞼を閉じてからパッと大きく見開いた。心地良い過去に浸る時間は終わりだ。翔は心中の憂いを何とか抑えつけ、いつもの冷静な顔に戻して立ち上がった。
賑わう到着ロビーを真っ直ぐに横切り、外に出でタクシーを拾う。
今回の目的は、ある若手男性デザイナーに会うことだった。
香港では結構人気があるらしいが、日本ではまだ全く無名の彼の服は、必ず日本の若者に受け入れられるブランドになると翔は確信していた。
彼のデザインした服は、近いうちに日本のアパレル会社が売り出すだろう。櫻井文具はそれより前に彼と契約を結び、雑貨のデザインと販売の権利を獲得しておく。
そして、彼のデザインした服が日本の雑誌で紹介され注目を集める頃に、櫻井文具が展開しているファッション雑貨ブランド 『Cherry』 とのコラボ商品を売り出す計画だ。
高価な服には手が出なくても、雑貨なら気軽に女子高生等の手に入る。勿論、彼の服を日本の雑誌に掲載する手はずも整えておいた。
事前の営業会議で、そこまでするのなら自分たちで服も販売すれば良いのではないか、との案も出たが、翔は勝算のない勝負はしない。自分たちは自分たちのフィールドで戦えば良いのだ。
翔の頭の中はあっという間に今後の戦略で埋め尽くされ、澄みきった異国の青空を見上げる事などただの一度も無かった。
その夜、翔は宿泊先のホテルの最上階のバーにいた。好きな銘柄のウイスキーをオーダーして今日一日を振り返る。
商談は順調に終了した。後は、相手側の弁護士とこちらの現地代理人に委ねておけば全てうまくいくはずだ。
売り出し前の野心家の若いデザイナーは、アジアのファッションの中心であるTOKYOの有名ファッション誌で紹介されるという事が、とにかく魅力だったらしくそれほど高額ではない金額でこちらの条件通りに契約を結んだ。最後に付け加えた最重要事項の、
『雑誌掲載にかかる全ての経費は契約料とは別に櫻井文具が負担し責任を持ってバックアップする。その条件として、雑貨販売に至るまで櫻井文具の社名は一切出してはならない』
との誓約書にも躊躇なくサインをした。当然、日本の雑誌社ともその誓約は交わしておいた。もし事前に契約のことが外部に漏れたら、先物取引き紛いの事ではないかと世間にマイナスイメージを与え兼ねないと危惧しての事だ。用心に越したことはない。
磨き抜かれた分厚い一枚板のカウンターで頬杖をつく。一仕事やり終えた達成感で充実した気分のはずだが、ふと、心に風が過ぎる。
手の平で包むロックグラスは、あの浅草の店とは比べ物にならないほど上質なものだ。なのに、もう一度金色に輝いていた分厚い古いガラスに触れたいと思うのはなぜだろう。
氷が解けてカラリと澄んだ音を立てる。どんなに硬く冷たい氷もこの琥珀色の液体には敵わない。優しく包まれると全てが融けてしまう。
(俺は、ずっと走ってきた。会社のため、自分のため、…智のために。
そう、あの才能を世間に知らしめるためにだ。そして、大切に種を蒔き、育み、膨らませた蕾がやっと綻びかけた輝ける日に、智は出会った…)