二年前に、木村が言った言葉が頭を過ぎる。
『秘密にしておくことは簡単だ。でも、僕は話しておくべきだと思った。和は頭がいい。なぜ両親がその道を選んだのか、ゆっくりでいいから考えるんだ。時間は十分にある。大人になるまでに何が正しいのかを、自分で判断するんだ』
幼かった和は、当時の事件を知らない。今なら、調べることも可能だが、知る勇気は、まだない。だが、両親が犯罪者であるという事実はいつも心に重く圧し掛かかっていた。
この二年間、毎晩眠りに落ちるまで、余計な事を考えてしまわぬように心を空っぽにして、天井を見つめるのが日課だった。
ごろりと仰向けになる。いつもの白い天井が見える。
「…僕はね、中国人なんだ。名前だって カズ じゃない。ほんとは フゥ っていうんだ…」
独りごとのように呟いて、和ははっとした。
見慣れた模様を見ている内に、孤独な夜が胸をよぎり、誰にも言ったことのない秘密を口にしてしまった。思わず、智を見た。
「…でも、…皆、カズって呼んでた…。先生も」
驚きを隠せない智の真っ直ぐな視線とぶつかった。
「…他の子は何も知らない。先生には僕がそう呼んでって頼んだ」
目を逸らして答える。
「何で? カズ…じゃない、フゥ君はフゥ君でしょ? 違う名前で呼ばれたくなんかないでしょ?」
「平気さ。中国人だって分かって、色んな事を聞かれるよりは、よっぽどいい」
煩わしさを避けるため、発語が不自由な振りをして周りに壁を作ってきたのだ。
智はすっと立ち上がり、和の隣に座った。そして、起き上った和の肩を自然な動作でぎゅっと抱きしめた。華奢な肩は五歳の潤と同じくらいの幅しかない。和は突然の事に動けずにいた。
「そんなのダメだよ。自分の名前を忘れちゃうよ。名前は大事なんだってお母さんが言ってた。いろんな人の大切な思いが込められているんだよって」
「…離せよ」
腕の中でもがく。
「僕は、フゥって呼んでいい?」
「…いやだ」
「お願い。君の名前が可哀そうだ」
「…他の子に聞かれる」
「じゃ、二人の時だけ。それならいいでしょ?」
「…それなら、まぁ、いいけど」
「よかった。和と書いてフゥだね」
智の肩に顎を乗せたまま、和は戸惑っていた。ドキドキする。胸に温かいものがこみ上げる。鼓動を聞かれるのがいやで、やっとの思いで智の体を押し返す。
「君って、変な奴だな。何か、分かんないけど、変な気持ちになる」
と赤い顔で呟いた。それ心を開き、人を受け入れることだというのが、その時の和には分からなかった。
「いいじゃん。僕のことはサトシって呼んで」
「サトシ、ね。それより、君って、全然授業とか分かってなかったでしょ? 教科書の上で目が泳いでる感じだった」
興味なさげにしていたが、実は気になって仕方がなかったのだ。
「だって、あんなの前の学校で習ってないよ」
「習わなくたって分かるよ。ここは、進み方もすっごく早いから、智みたいにぼーっとしてたら、絶対おいてかれるよ」
「どうしよう。ねぇフゥ、教えてくれる? ほんと言うと、勉強、全然だめなんだ。前も算数で三十点取って、こっそり捨てちゃったんだ」
「…絶望的だな」
二人は笑った。互いの生活が、人生が大きく変わってから、初めての屈託のない笑い声だった。和にとっては実に五年ぶりの本当の笑顔だった。
翌日、朝食の時間に智は潤を探した。百人以上の子供が集まったホールは相応に賑やかだった。
「あ、いた!フゥ、あそこだ」
「皆の前でそう呼ぶなって!」
「あっ、ごめん。潤!」
潤が奥のテーブルから振り向いた。
「お兄ちゃん!」
嬉しそうに手を振る。そばに梨田がいて、潤はよく懐いているらしく、智を指差し笑顔で話している。並んでいる列を乱す事は出来ないので、智もただ手を振り返すしかなかった。
「よかった。元気そうだ。泣いてるんじゃないかって心配だったんだ」
「同じような年の子ばかりだから、楽しいんじゃない」
「あ、潤はまだお母さんたちが死んじゃった事を知らないんだ。絶対言わないでね」
「そうか、だからあんなに元気なのかもな」
「そうだよ。フゥはいいよ。また会えるんだもの」
「…だから、そう呼ぶなって」
「ごめん、ごめん」
笑いながらまた手を振っている。和は、智がどうしてこんなに明るくいられるのか不思議だった。両親を亡くし、いきなりこんな所に連れてこられたのに、暗く落ち込んでいた過去の自分とは全く違う。
(弟がいるから? だからこんなに明るい? また会えるからいいって、家族ってそんなにいい物なのかな?)
家族というものを、まだ把握していないくらいに幼い頃にここに来た和にとって、それは理解し難い感情だった。智は、横顔を見つめる和の視線には全く気付かずに、潤ばかりを見ていた。
―現在―
今また、和は智を見ていた。花を扱うその手は、女性のようにしなやかでほっそりとしている。繊細な指の動きは、まるで本物の華道家のようだ。特殊部隊の一員で、しかも一流のスナイパーの手などには全く見えない。
何も言わずに花を活けている。和の記憶にあるのは目の前の冷淡な横顔などではない。過去の優しいそれだ。
(もう、僕には見せてくれない)
ふっと諦めにも似たため息がこぼれた。それを待っていたかのように、ふいに智が振り向き、和の目を捉えた。瞬間、時が止まった。
「…何故だ?」
再び聞く。和は視線を外すことが出来なかった。
「…僕は、もう、自分を終わらせたいのです」
目を逸らせぬまま、小さな声で続ける。
「いや、僕の人生は三歳の時、施設の集中治療室のベッドに置かれたその時、すでに終わっていたのかもしれない…」
和の目が過去を漂う。
「そうだ、僕はとっくに終わっていた」
活けられたひまわりに目を向ける。太陽の形をした小さな花は、まるで陽光を集めたかのように明るく輝いている。
「その花だって、生命力に満ち溢れたように咲いているけど、実の所は、命を絶たれ、急速に死に向かっている。根を切られ、葉をもがれ、あとは枯れてしまうだけだ…」
智も花に目をやる。
「…僕と同じだ」
静寂の中、二人の胸に共に過ごした記憶が再び呼び起こされた。
続く…。