駿河の大名今川氏真は暗愚の将として描かれています。


桶狭間の戦いで父の今川義元が織田信長に討たれてから、今川は没落の一途をたどります。


桶狭間の戦い以前に実は父の義元から家督を譲られています。氏真は本拠地駿河の支配を任されています。


偉大な父を失った後、氏真は国を保とうとしますが、抗えず、武田信玄の侵攻に伴います。今川氏真は掛川城を放棄して小田原北条に逃れます。


永禄12年(1569年)5月23日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を養子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約束しています。この時点で氏真嫡男の範以はまだ生まれていません。現実的には、今川氏の家督を国王丸に譲らされ、氏真の身分は「隠居」ということになったのでしょう。

身を寄せていた小田原北条氏が滅亡してからはかつての部下徳川家康の庇護を受け、幕府のしきたりを取り仕切る『高家』として江戸時代存続します。

山科にある『毘沙門天』に行きました。


寺伝によると、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)に行基が開きました。 平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、建久6年(1195年)、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を統合し、出雲路に五間堂3棟を建てました。


建久6年(1195年)に塔ノ垣にあった旧出雲寺の地に護法山出雲寺として再興され、最澄(伝教大師)自刻の毘沙門天像を本尊とした。


なお、比叡山延暦寺の根本中堂に倣い、西に平等寺、東に尊重寺、中心に護法寺を据える配置としています。











明応2年(1493年)、真如堂の本堂が完成します、永禄12年(1569年)将軍足利義昭の命によって一条通北に移転します。

天正15年(1587年)、今度は豊臣秀吉によって聚楽第建設のために京極今出川に移転する。慶長9年(1604年)豊臣秀頼の寄進によって本堂が建立されます。