桶狭間の戦い織田信長に討たれた、今川義元。

顔に白粉とお歯黒を塗り、京都の公家風情で、愚将のイメージ。
そんな評価も近年の研究では、評価が変わってきています。

海道一の弓取り

これが、本来の今川義元の姿でしょう。
兄との後継者争いに打ち勝ち、18歳で今川の家督を継ぎ、勢力を拡げ、甲斐の武田や相模の北条に拮抗していきます。

幼き日の松平竹千代(後の徳川家康)を保護し、育てます。

『人質』とは言え、鷹狩りにも出れましたし、どこかに閉じ込められていたわけではありません。

今川の本国駿河は文化先進国ですので、学問を身に付けることができました。
後の徳川家康の読書好きは、幼き頃に培われます。

また、竹千代の元服時には、義元の名から『元』を与えて松平元康としました。姪の『瀬名姫』を元康の妻として与えています。人質にここまではしないでしょう。

元からすると、元康は今川家譜代の重臣となる新時代の『期待の星』として育てていきます。

桶狭間の戦い後に今川を離れて、織田と同盟した家康が、幼少期に今川にひどい目にあったという話を江戸幕府が後年でっちあげたと思われます。