「この門とおところが目に入らぬか~」で有名な
水戸黄門は徳川が康の孫になります。
従兄弟の家光から、光をもらいます。
水戸藩は家康11男頼房を祖として成立しました。水戸は定府の制と
言い、参勤交替がないかわりに、本国水戸ではなく、江戸在住しま
した。
御三家が将軍輩出機関でありました。光圀はほぼ江戸で生涯を過ご
しました。
正式には、光圀は『権中納言』ですので中納言ではありません。
徳川家康は1603年に江戸幕府を開きましたが、2年後には3男秀忠に将軍職を譲り、
大御所と呼ばれ名目上は引退します。関ケ原で勢力が減退したとはいえ、まだまだ権威の象徴で
ある豊臣氏に対して、将軍職は世襲制であることを内外に示しました。
秀忠は家康の3男でありながら、将軍になれた理由についてですが次男結城秀康は早くから豊臣
秀吉のもとで育ったため、いざというときに巷間では豊臣に味方すると言われていました。
また秀忠の母が正室に近い位置づけにいたからと言われています。
もちろん、母の出自も重要でしたが、わたしは違う理由があると思います。
家康が自分の手元で育てた長男の事件が脳裏にあったからであったからでしょう。
本当の長男岡崎三郎信康は武田との内通を疑われ、自害させねばなりませんでした。
遠江を支配下に置き、本拠を浜松に移してから、先祖伝来の岡崎は長男信康に任せていま
した。切腹させて死なせねばならないことを憂えてやはり自分の目の届く所で育てるべきと
考えていたのではないでしょうか。
家康との二元誠治とは言え、家康がいた駿府が拠点でした。
家康存命中は、秀忠カラーは出ませんでした。
しかし、徳川秀忠にしかできないこともやり遂げていきます。
安芸広島50万石の福島正則を改易、最上義俊を改易します。これは家康には出来なかった
ことです。これは、
息子で、3代将軍家光のことを思って対処したのでしょう。
父は東海一の弓取りと呼ばれた、今川義元。
残念ながら、大名としては後世の人からも及第点は与えられず。蹴鞠と歌にうつつを抜かした、腑抜けの跡取り、それが今川氏真の評価です。
一方で領地を治める大名としてはそれなりに頑張っていました。父とは二頭統治体制で、今川家代々の本国駿河の統治は任されていました。この構図は隣国織田や北条でもよくありました。
ちなみに氏真が手掛けた今川用水は灌漑用水として今も現存します。
織田信長が楽市楽座をしますが、今川いえでは先立ってやっています。
氏真は、大阪の陣の前1614年に亡くなります。享年74歳。
下の和歌は、和歌に精通した氏真のものです。
悔しともうらやましとも思はねど
我が家にかわる世の姿かな。








