徳川家康は1603年に江戸幕府を開きましたが、2年後には3男秀忠に将軍職を譲り、
大御所と呼ばれ名目上は引退します。関ケ原で勢力が減退したとはいえ、まだまだ権威の象徴で
ある豊臣氏に対して、将軍職は世襲制であることを内外に示しました。
 
秀忠は家康の3男でありながら、将軍になれた理由についてですが次男結城秀康は早くから豊臣
秀吉のもとで育ったため、いざというときに巷間では豊臣に味方すると言われていました。 
 
また秀忠の母が正室に近い位置づけにいたからと言われています。
もちろん、母の出自も重要でしたが、わたしは違う理由があると思います。
 
家康が自分の手元で育てた長男の事件が脳裏にあったからであったからでしょう。   
 
本当の長男岡崎三郎信康は武田との内通を疑われ、自害させねばなりませんでした。
 
遠江を支配下に置き、本拠を浜松に移してから、先祖伝来の岡崎は長男信康に任せていま
した。切腹させて死なせねばならないことを憂えてやはり自分の目の届く所で育てるべき
考えていたのではないでしょうか。
 
家康との二元誠治とは言え、家康がいた駿府が拠点でした。
家康存命中は、秀忠カラーは出ませんでした。
 
しかし、徳川秀忠にしかできないこともやり遂げていきます。
 
安芸広島50万石の福島正則を改易、最上義俊を改易します。これは家康には出来なかった
ことです。これは、
息子で、3代将軍家光のことを思って対処したのでしょう。