織田信長の4男秀勝と5男信房は順番が逆と言われています。

ちなみに、秀勝は子供のいなかった秀吉の養子にします。長浜城を任せます。

秀吉は本能寺の変で、亡くなった信長の棺桶を守る親族の一人に秀勝を抜擢しました。

実は次男信雄と3男信孝も同じ年に生まれ、信孝のほうが先にうまれてがた、次男信雄は正妻(実は違う)の信忠と同じ母でしたので、次男と3男を入れ替えたようです。

正妻の実家の権勢にもより、よくあった事例です。

現実に、信長も父の3男でしたが嫡男で後継者として指名されます。

骨肉の争いをしたのは同腹の弟であったため、自らの後継者は長男信忠と指名していました。


天下人、徳川家康。

子供の頃から、苦難の連続でしたがその家族も苦難、苦慮しました。

母お大の方とは早くに生き別れ、母は久松俊家に嫁ぎます。

次男定俊は今川こ人質、今川家没落後は武田の人質となり、甲府で過ごし、隙を見て逃げると途中凍傷を患い、歩けない体になります。

お大の兄水野信元は、甥の家康の手にかかり、謀殺されます。信玄なきあとの武田と内通しているという噂を流されました。真相はわかりません。

織田信長家臣の佐久間信盛と仲が悪く、陥れられたとも、水野信元が尾張、三河で領する権限を煙たく思った、信長家康の判断で排除されたとも言われています。


996年、23歳の若き藤原伊周は惚れた女性を横取りされたと勘違いして花山法皇に向かって矢を射掛ける事件を起こします。

この事件をきっかけに、伊周は大宰府に流されます。

伊周は夜中こっそりと一年前に亡くなった父道隆の墓参りをし、自分の身に起こったことに自分には過失が亡かったと訴えます。

伊周は宇治の木幡に向かいます。
ここには藤原家の墓がありました。現代のように先祖の全て入るのではなく、個人のものでした。また、当時の墓参りは父母のものだけで、祖父母の墓には参りませんでした。

平安時代は后が葬られたました。

伊周は、同年12月に許されて京都に、戻りました。
 
学校の歴史の時間に習う、『鎌倉幕府』、『室町幕府』、『江戸幕府』。
 
日本の中世には三つの幕府が存在しました。
 
確かに日本を統治する武家政権は存在しますが、実は幕府はあるようでなかったのです。
 
本来、『幕府』とは、文字通り、『兵站にある、軍事の作戦本部』を指します。
 
幕府とは文字通り、平地に幕を張り、そこに『府』、つまり、作戦の中枢のことを指します。
そこにいた中心人物が将軍です。
 
最初の武家政権、鎌倉幕府はもともと源頼朝の邸宅で行われました。問注所のトップには京都の貴族で頼朝のブレーンにもなる大江広元などがいました。
 
歴史作家の井沢さんが書かれていますが、江戸幕府の大老や老中などもいつ置かれたのか、わからないとののと。
 
もともと松平氏は、重臣や家宰のことを、『おとな=年寄』と呼び、のちに『老中』として当主を支えました。
 
現代の会社で言う、『取締役』の地位です。