皆々様、今年も大変お世話になりました。

今年になって遮二無二ではありますが、ブログ、Xアカウントでの発信を始めました。

ありがたいことに、歩兵第二十二連隊に所属した親族の方からお問い合わせをいただくことができました。

他にも親戚のつてなどで、軍人を調査する機会にも恵まれました。

来年以降、許可のあるものは順次まとまり次第公開していくつもりです。

その中にあって、遺憾ながらブログの更新頻度のみがあまり振るいませんでした。

来年の抱負の一つは、我等全員極メテ士気旺盛、誓ツテ「ブログ」ノ更新ヲ期スことですかね....

 

今回の記事では2人目の調査対象者こと、別の森貞の履歴の概要をまとめたいと思います。

 

同じように、海軍軍人の場合は、請求窓口が厚生労働省になります。

必要書類を揃えて申請すると、調査対象者の履歴が開示されます。

 

 

 

調査の動機

 

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今度の調査対象者の存在を知ったのは、前回の記事で取り扱った、兵曹長の方の森貞の存在を知ったのとほぼ同時でした。

地区の戦没者がまとめられていた本をパラパラめくっていると、同じ姓の、同じく海軍の下士官の写真が載っているのを見つけました。

 

=愛媛県某地区の戦没者名鑑

 

 

掲載されている家系図によると、彼は1人目の調査対象者である森貞兵曹長の兄である由でした。

「はア〜、うちには2人も戦没軍人がいたのか...しかも下士官だったのか」と驚きました。

 

ひとまず略歴を整理すると、以下のようになります。

 

1908年 生まれる。

1930年 海軍に入る。

    一度除隊する。

1944年 召集される。

1945年 フィリピン コレヒドール島で戦没する。

 

=戦没者名鑑の掲載ページ

 

 

 

=本人の肖像。割とかっこいい...

 

 

 

シリーズ目次

 

プロローグ・履歴の整理

→本記事←

履歴1

履歴2

履歴3

 

 

 

どんな資料があったか

 

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前回の記事の森貞兵曹長と同じ時に請求したので、詳細は割愛します。

 

=厚生労働省から届く封筒

 

 

=森貞兵曹に関する軍歴資料

 

 

 

森貞兵曹の履歴

 

=森貞兵曹の履歴原票

 

ここでは、前回と同じように時期区分をほどこしつつ、彼の履歴を整理したいと思います。

 

この作業の核となるのは上の写真の資料です。

 

これは、家族状況、本籍地のほか最も必要な情報である、海軍入団後の本人の履歴を情報として持つ魔法の紙です。

具体的な内容としては、進級や任官の状況、所属部隊・艦船の異動、叙勲、移動です。

これらの情報が、日付とともに掲載されています。

 

以下に、簡単に彼の履歴を整理したいと思います。

赤字は、歴史的に有名な出来事です。

 

まず、彼の履歴を

 

①現役

②太平洋戦争

 

の2つに分けます。

 

①から簡単に見てみましょう。

 

 

 

①現役

 

1908年

愛媛県に生まれる。

 

1929年

12月1日

現役(兵役の服役区分の1つ)に編入される。

 

1930年

1月10日

徴兵され海軍に入る。

長崎 佐世保海兵団に入団する。

4月

ロンドン海軍軍縮条約

5月

軽巡洋艦「長良」乗組となる。

 

1931年

9月

柳条湖事件→満州事変

20日

救助作業員として勇敢に人命救助。

神奈川県知事からも表彰される。

 

1932年

1月

第一次上海事変

1月26日

第一遣外艦隊司令部付(陸戦隊員)

2月2日

第三艦隊司令部付(陸戦隊員)

第一次上海事変に、海軍陸戦隊員として参加する。

5月

軽巡洋艦「長良」乗組に戻る。

5月14日

佐世保に帰還する。

9月

日満議定書

 

 

1933年

3月

日本、国際連盟脱退を通告

3月末

右胸膜炎にかかり佐世保海軍病院に入院。

4月

退院する。

9月

除隊する。

 

 

 

1930年に海軍に入って、軽巡洋艦長良に乗り組んでいたようです。

この時期のものと思われる集合写真が残っています。

 

=軽巡洋艦「長良」の集合写真

 

この写真から本人を探したいのですが、残っている本人の写真がいずれも10年以上経ってからのものなので、さすがに一致させることができず、探せずにいます。

 

昭和5年1月10日入団兵の佐世保海兵団修業記念アルバムを探し出さないといけません。

もしもお持ちの方がいて載っていたら、お教えいただければと思います。

インターネットでもう5年以上探していますが、調査対象者2人の時期のものだけが出ません...泣

 

また、1931年に何やら表彰されていたようです。神奈川県知事からとのことなので、現地の地方新聞に、もしかしたら何か記事が載っているかもしれません。この時の賞状も、古い家が建て替えられる前に気づけば現存していたのでしょうか。

 

=森貞兵曹の履歴原票より

 

1932年の第一次上海事変に、海軍陸戦隊員として参加したようです。

もともと駐留していた陸戦隊の部隊ではなく、国内で編成されて派遣された部隊に所属していたようです。

1月26日に、佐世保を出発しています。

所轄は、1月26日に第一遣外艦隊司令部付。2月2日に第三艦隊司令部付とのことでした。

 

しかし、この履歴をみただけでは所属していた部隊の詳細な隊号がわかりません。今後明らかにする必要がありそうです。

 

帰還後は再び「長良」に乗り組んでいたところ、胸膜炎を発症して入院してしまいました。

退院後は服役延期が終わる時期と重なり、除隊したようです。

除隊当時の階級は、一等水兵でした。

 

 

 

②太平洋戦争

 

除隊後

兵庫県・中華民国に寄留する。

 

1934年

4月29日

昭和六年乃至九年事変(満州事変・第一次上海事変)の功績によって

勲8等白色桐葉章および金270円を賜与される。

 

1937年

7月

日中戦争はじまる。

 

1939年

11月

結婚する。

 

1941年

12月

太平洋戦争はじまる。

 

1944年

1月

海軍に召集される。

佐世保海兵団に応召。

5月

下士官になる。

第26特別根拠地隊付となる。

 

時期不明

フィリピンに到着する。

7月

慢性気管支炎により入院する。

 

不明

第31特別根拠地隊に編入される。

 

1945年

2月17日

フィリピン コレヒドール島で戦死と認定される。

 

 

 

除隊後は、仕事で兵庫県、中華民国にそれぞれ寄留していて、1939年に同じ愛媛県の女性と結婚したようです。

なんの仕事をしていたかは今となってはわかりませんが、この時期の写真が一枚だけ残っています。

刀を持っているので、ちょっと偉かったんですかね。

 

=除隊後の森貞兵曹(1939年以降)

 

=裏面。「憲兵検閲済」とある

 

日中戦争・太平洋戦争前半と召集されることはなかったようです。

1942年9月以降には、戦没した弟である森貞兵曹長の葬儀にも駆けつけています。

 

=森貞兵曹(戦没した弟の葬儀で。1942年以降)

 

 

彼は1945年に戦没した当時、37歳でした。

これは当時としてはかなり高齢の部類に入りました。

この時は、歳もとっているし病歴もあるので、まさか自分も召集され、数年以内に戦場で命を落とすことになるとは思っていなかったのではないでしょうか...

 

1944年、戦況も悪化していた頃に召集され、長崎の佐世保海兵団に応召します。

 

=森貞兵曹の履歴から。

 

その後2月に一度、上海海軍特別陸戦隊付となっています。

本当に現地の部隊に所属したのかまではわかりませんが、このまま転属にならなければ、終戦まで無事だったかもしれません。

 

5月に、下士官である海軍二等兵曹(陸軍でいう「伍長」)になっています。

この頃に、遺影のつもりで撮ったと思われる写真が1枚残っています。

 

=森貞兵曹(1945年5月以降)

 

=戦没者名鑑掲載の写真

 

第一次上海事変に参加して賜与された、勲章と従軍記章をつけています。

年配ですが実戦経験を持っていたので、もしかしたら威張っていたかもしれませんね。

 

 

彼のこの写真は「戦没者名鑑」に掲載されたものと同じでしたが、探し出すのに苦労しました。

森貞兵曹長の方は本にそのまま挟まっていたので

 

「どこかにあるはずだ」

 

と仏壇のあらゆる引き出し、倉庫、本棚、昔の写真が整理された箱を一通り荒らしては丁寧に戻して探しましたが、一向に出てきませんでした。

 

「やはり捨てられてしまっているのか...」

 

と半泣きで探していると、箱に突っ込まれた何百枚もの戦後の白黒写真の中に、1枚だけ茶色く色褪せた写真が見えました。

ほぼ霊感で「間違いねえ」と思って引っ張り出すと、予想通り森貞兵曹の写真でした。

 

「あと1枚でも2枚でもいいからこの人のものが残っててくれたら...」

 

と思うのは贅沢でせうか...

取り壊した古い家の納屋には、彼等の学校の教科書から書類から何から残っていたとのことです。

 

 

話がそれましたが、第26特別根拠地隊という部隊(この部隊の所在地が現時点では判明していません。よって、部隊まで到着していたかも明らかではありません)を経て、フィリピンルソン島マニラの第31特別根拠地隊に編入されたようです。

その間、一度慢性気管支炎を発症しており、マニラの海軍病院に入院していました。

現役の時も胸膜炎になったりで、病気がちな感じがしますね。

 

その後、履歴の記事は極端に少なくなり、数行飛んで1945年の2月17日にコレヒドール島で戦没したと認定されています。

 

彼の戦没状況について、厚生労働省の回答によると

第31特別根拠地隊付として比島ルソン島マニラにおいて勤務、マニラ湾口コレヒドール島部隊に編入せられ、昭和20年2月上旬以降来攻の敵部隊と交戦、昭和20年2月17日比島方面において戦死せられたものと認定されております。

とのことでした。

この当時、37歳でした。

 

 

今後、彼に関して探し、調べなければいけないことは大体以下の通りかなと思います。

 

・佐世保海兵団の修業アルバムで若い頃の顔を判明させること

・第1次上海事変において彼が所属していた海軍部隊の特定

・1944年応召後の詳細

・1945年のコレヒドール島の戦況

・第31特別根拠地隊について

 

 

もし彼もしくは彼の部隊について何か情報をお持ちの方がおられましたら、ご連絡いただければと思います。

 

また、主として愛媛県人で編成されていた「歩兵第二十二連隊」、もしくは、愛媛県に本籍を持っていた陸軍軍人の方に関しても調査をしています。

関連する資料・情報について、もしご連絡をいただける場合、以下のXアカウントまでお願いいたします。

 

https://twitter.com/mt2ym2

 

 

ここまでご覧いただき、ありがとうございました。

精一杯がんばりますので、来年も引き続きよろしくお願いいたします。