『「動機」の政治と「結果」の政治』 田中良紹 | レオヤナギさん!どちらへ?

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田中良紹氏の「国会探検」より



<転記開始>↓




2012年2月25日 01:58

     『「動機」の政治と「結果」の政治』

 政治は「結果」である。どんなに「動機」が正しくとも「結果」を出せなければ意味がない。ところが「動機」が正しければそれで良いと考える人たちがいる。その人たちは正しい事を主張するのが政治で、正論は必ず理解されると信じているらしい。信ずるのは勝手だが、それでは余りにも世の中を知らない。人間は「理屈」で動くのではない、「利益で動くのである。

 しかも正論は人さまざまである。全員が正しいと思うことなどまずない。誰かが「正しい」と言えば、別の誰かは「正しくない」と主張する。時代が変われば正しさの基準も変わる。正しい事を実現したと賞賛された政治が後に批判された例はいくらでもある。

 以前書いた『増税の「理」と「利」』で、私が坂本龍馬一級の政治家と評価した理由はそこにある。「維新の志士」と呼ばれる人たちは、ひたすら「尊皇攘夷」を正論として結果も考えずに突き進んだ。しかし龍馬は「理屈」を叫んで世の中が変わると思っていない。薩長連合は、薩摩には米を長州には武器という「利益」を龍馬が与えたから成就した。

 そして龍馬には新時代を切り拓く戦略とシナリオがあった。徳川家に「大政奉還」させ、天皇中心の体制を作るが、しかし政治を執り行う能力に乏しい公家や薩長の田舎侍に政権を任せるのではなく、それまで政治を執り行なってきた徳川体制を温存させ、ドリームチームとでも言うべき公武合体の大連立政権を作ろうとした。それが欧米に対抗するための日本国誕生のシナリオであった。

 ところが龍馬は暗殺され、ほどなく戊辰戦争が起こり、龍馬の描いた「公武合体政権」のシナリオは消滅した。代わりに「動機」の正しさを主張する幼稚な連中が明治を作った。だから「週刊新潮」に文芸評論家の野口武彦氏が連載するように、明治の「め」は目茶苦茶の「め」なのである。そう考えると坂本龍馬が暗殺され、彼の戦略とシナリオが消えた事が日本を政治未熟の国にしたとも言える。

 こう書いてきたのは、昨年11月のG20で「消費税法案の2011年度内提出」を国際公約した野田総理が「結果」を出すための戦略とシナリオを持っているように見えないからである。野田総理の発言を聞いていると「動機の正しさを認めてくれ」と言っているに過ぎない。

私は全くそう思ってはいないのだが、仮に「社会保障と税の一体改革」が正論であっても、仮に「財政赤字の解消」が正論であっても、増税で金を取られるのは国民だから、国民にどのような「利益」がもたらされるかを具体的に示さない限り物事は動かない。将来不安を言い募って脅すだけでは国民はついていかない。会社の社長が将来不安だけを口にして給与を下げようとしたら、従業員は社長を代えてましな経営者の下で働きたいと思う。「動機」の正しさを言うだけなら政治家は要らない。政治家の仕事は「結果」を出すための戦略とシナリオを持つ事なのである。

 しかしこの国には「動機」の正しさを主張するだけの政治家が多い。前の総理もそうだった。戦略とシナリオがないから負けてはならない参議院選挙に敗北し、「ねじれ」という負の重荷を背負っても、それを解消する戦略もシナリオもなく、ひたすら野党にすり寄るだけの政権運営を行った。そのくせ「正論」の如き口ぶりで「理屈」だけは言った。

 その前の総理も普天間基地の県外・国外移設を主張したが、その「結果」を出すための戦略もシナリオも持ち合わせてはいなかった。アメリカは普天間基地の辺野古移設が困難な事を百も承知である。だから自民党政権の「努力」を冷ややかに見てきた。自分たちは冷戦後に見合った再編計画を独自に作成していた。自民党に代わってアメリカを納得させるシナリオを出せるのかと思っていたら、結局は絶対に実現するはずのない辺野古移設を認めるという自民党と同じ結論に戻った。

 野党に転じた自民党も酷いものである。「政権奪取」という目的のためならなりふり構わない。「動機」が正しければ何でもやれとばかりに民主党攻撃を行なって自らの人気を下げている。へまをした子供とそれをいじめる子供の喧嘩を見せられているのが今の国会で、公明党の方が本格野党に見えてくるから、つくづく自民党に政権が戻る事はありえないと思ってしまう。この政党の政治家にも「結果」を出すための戦略とシナリオがない。

 歴史学者の中には「陽明学」が「維新の志士」たちに影響を与え、「動機の正当性を重視する政治風土が生まれたとする見方がある。「動機」さえ良ければ後の事は考えずに「やっちまえー」と言ったのが幕末維新だった。戦後の「60年安保闘争」もそれに似ていると言うのである。

しかし私の知る限り、かつての自民党には「結果」を出すための政治技術があった。シナリオを書ける政治家がいて、誰にも知られずにシナリオを書き、誰にも知られずにそれを実現して行く。大方の政治家はそのシナリオによって動かされている事に気付かない。そして「結果」が国民のためになればそれで良しとする考え方だった。それに比べるとテレビで口角泡を飛ばす政治家や「理屈」だけを言う政治家が子供に見えてくる。古い自民党には悪いところも沢山あったが、しかし今よりは大人の政治をやっていた気がする。




↑<転記終了>


戦略とシナリオと実行力を持つ唯一の政治家「小沢一郎」は暗殺されかかっているが、幸いなことにまだ終わっていない。