それは『患難のなか忠節の心情を持った真の息子と娘』というみ言です。
これは昨年末にかけて、あるいは本年の初頭あたりまで、『3男 VS 4男・7男』という状況が表面化し世界レベルで大動揺が起きた当時、教会内部のローカルでも、あるいはネット上のオンラインでも流布されていました。御承知の方も多いのではないかと存じます。
『なんと!・・・文先生は、既に1961年に今日に起こる事象を予言されていたのだ!』というような論調でこのみ言を引用し、今の時に相応しい、UC信徒皆様の信仰姿勢の是非について喚起されていたのではないかと思います。
今日は、私達1.13Project がこのみ言をどのように捉えているのかということについて述べてみたいと思います。勿論、この考察は権進様の解いておられる観点であります。ただし、文責はあくまでも私くし神山にあります。そこのところ、宜しくお願い致します。
まず、肝心のみ言をもう一度確認してみましょう。途中途中『・・・コメント始まり・・・』『・・・コメント終わり・・・』で囲んで私くし神山のコメントを挟ませていただきながらになります。
み言の始まりの部分は ≪み言はじめ≫ となっています。み言の続きの部分は ≪み言続き≫ となっています。
また、コメントの中にもそれぞれ適時み言の引用があります。少々見づらいと思いますが何卒御了承下さいませ。それでは宜しくお願い致します。
● 患難のなか忠節の心情を持った真の息子と娘
▼ 1961年2月12日『文鮮明先生み言選集第十一巻』
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≪み言はじめ≫
神様は終わりの日になれば、人類の前に7年の大患難があるだろうと予告されました。この患難時期は6000年の歴史路程において、天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、その良心で自らの生涯を主張できない時です。御旨を抱き、考えのある者であればあるほど、眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。
そのような時が、終わりの日の7年大患難の時です。その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までもすべて揺れる時です。
・・・・コメント始まり・・・・
「人類の前に7年の大患難があるだろうと予告・・・」「そのような時が、終わりの日の7年大患難の時です。」というこの「7年」とはいつか?これは、厳密には1994年から2000年までの7年だと思います。ここで云う「終わりの日」とは西暦2000年だと思います。
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◆ ファミリー2001 2月号 2001年1月1日 第34回「真の神の日」午前零時の祈祷とみ言
<P6> 愛する天のお父様。たった今、キリスト教歴史2000年を終え、3000年に向かって出発する2001年の新しい時代を迎えました。・・・<P12> み旨を成就しなければならないということです。分かりますか?それで創造理想として願われた、一つの信条であると同時に主流思想であったということを、この一千年間にきれいに解決するのです。昨日までの2000年間は、第2イスラエル圏を中心として、世界的な蕩減路程を歩んできた時なのです。今からはそのような時代が過ぎて、黎明が訪れ、新しい朝の成約時代を迎えて、祝福の理想が天宙化される時代となったのです。
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2000年までは、1945年までに準備されていたキリスト教をもう一度造り直す期間だったので、その終わりの日という観点を前提に致しますと、1994年から2000年までがここで云う「終わりの日」だと思います。
何度も強調して本当に恐縮ですが、UCはもう一度再現した世界的なキリスト教なのです。以下のみ言、そして「権進様の第二の手紙」にてご確認下さい。
(第1回7.8節)
世界基督教統一神霊協会は、天使長宗教圏です。結婚できませんでした。イエス様も結婚することができなかったのです。天使長の使命しかできないというのです。息子の使命が果たせないというのです。分かりましたか?
(ファミリー95/1 P10 第35回 真の万物の日)
キリスト教の歴史は新婦圏復帰の歴史です。連合国とはキリスト教文化圏を中心とした世界です。新婦圏の世界が先生に反対したので、ヤコブ家庭から始まった4000年歴史を400年に蕩減しなければなりません。しかし、先生は400年は生きられないので、40年の一代期間にしなければなりません。4000年歴史を40年に蕩減復帰するのです。
(牧会者の道 P1095. 第6章 霊的役事と摂理的主要行事 2 先生の聖婚式)
1960年度から40年間、2000年までそうであろうに、なぜ大動揺が起こるのかというのです。それは清算をする期間です。P1096 こうしてお母様を選んだ後、統一教会に女性の時代が来たのです。女性時代は艱難時代です。
(権進様の第二の手紙より抜粋)
・・・ところでもう一つ。これは、難解な喩えの一つでして皆様にとっては今直ぐには御理解いただけない部分かも知れません。それでも、あえて今回の手紙で取り扱っておきたいと思います。
『こうしてお母様を選んだ後、統一教会に女性の時代が来たのです。女性時代は艱難時代です。』とみ言が続いている部分に注目して下さい。
これは、神様とお父様の事情と目的に呼応すべく新婦圏として設定してこられた我々統一教会について喩えて語られたものです。統一教会はユダヤ教とキリスト教の失敗を再現清算するために神様とお父様がつくられた新婦圏宗教圏なのであります。新婦圏宗教圏(天使長圏)を女性(エバ)と喩えて語られているのです。それで、その女性時代と喩えられている統一教会史40年を、つまり1960年から2000年までの期間を『艱難時代』だと説明されているのです。
何故、新婦圏宗教圏を女性(エバ)と喩えられるのでしょうか?
ゆくゆく説明させて頂きますが、お父様がみ言で語られる「女性・エバ」といえばいわゆる女子の事だけを指して語られているのではありません。実のところ殆どがアダム(地上)の相対圏であるところの天使長(霊界)を「女性・エバ」に喩えて暗示的に語られているのです。
・・・・コメント終わり・・・・
≪み言続き≫
では、神様はなぜそのような世の中をつくっておかなければならないのでしょうか。それは真の神様、歴史的に苦労した神様と同参したという価値を与えるためです。神様は6000年間数多くの惨状を見てきましたし、数多くの曲折を受けられたので、終わりの日においては、主義とか、信仰ということをもって中心を立てることのできない環境にぶつかるようにするのです。
・・・・コメント始まり・・・・
「神様はなぜそのような世の中をつくっておかなければならないのでしょうか」とあることに注目して下さい。私達が主張しているのは「敢えてされている!」という観点です。そして「終わりの日においては、主義とか、信仰ということをもって中心を立てることのできない環境にぶつかるようにするのです。」とある所が肝心なところです。
主義や信仰では駄目だという観点が重要です。「主義や信仰」と「創造原理に立つ事」は違います。信仰(宗教)を卒業し原理圏に立つということは本質的に違うということを仰っているのです。
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統一教会 P9 1963・5・22 ソウル・前本部教会
一番収集するのが難しい人は宗教者です。摂理やその道を信じる宗教者たちです。・・・
KNSネットニュース 2008・1 第25回 「愛勝日」
今日、統一協会の信徒たちが、宗教圏の垣根を抜け出られず、それに覆われながら生きてきた習慣的なすべてのことを、どのように清算するのかという、重要な起点に今、来ています。私たちの語っていることは、事実か、そうでなければ謎のような言葉です。事実だというならば、皆さんは、アダムとエバが堕落する前に見ることができ、推し量り得る自分自身となっていますか。
アダムとエバの堕落以来、これまでの蕩減復帰歴史において、自分の責任がどれほど大切であったかを考えてみましたか。現在、自分が処している場所が、神様の創造の花のような本然の世界ではありません。想像もできない、自由と平和の理想圏内からは永遠に離別した、そのような場所に立っているのです。天の前に自らを何者としても誇り得ないのです。堕落の血統によって縛り付けられた世界版図を前に、どのようにこれを取り消すことができるかということを考えれば、考える余地がないほどに悲惨だというのです。
ファミリー 2003・3 P14 「神様の真の愛と天地人の関係の回復」
長い歴史の中で、人間は、宗教生活を卒業しなければならないという、この尊い真理を明らかにした人は、いませんでした。早くから神様のみ旨を知った私は、教派や宗教を創設しようとはしませんでした。神様の摂理の中心宗教であるキリスト教が、私の教えである天道を受け入れなかったことによって、私が初めてつくった組織が、「世界基督教統一神霊協会」 でした。
・・世の中が、私たちの長い公式名称に代わって 「統一教会」と呼ぶことによって、「統一教会」 になってしまったのです。しかし、私は数十年前から、私たちの教会の看板を下ろす日を望みながら、その事実を予告してきました。1996年に教会の看板を下ろし「世界平和統一家庭連合」として出しました。これは、人類史における重大事件です。
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現在、「統一教」として宗教の看板に逆戻りしていますがこれは本当に「人類史における重大事件」をさらにひっくり返す「重大事件」だと私たちは考えています。
・・・・コメント終わり・・・・
≪み言続き≫
そのような患難の中でも「神様を愛する」と言う、そのような難しい場でも「神様と共に生きる」と言い得る真の息子、娘を探すために、そのような時が来るというのです。 それゆえ皆さんは、教会が揺れるのを見て悲しむことなく、ある主義が動揺するのを見て悲しむことなく、ある主権者が倒れるのを見て悲しむことなく、自らの父母が変わったと悲しむことなく、自らの兄弟が変わり果てたと悲しまないでください。頼り、信じていた世の中の全てが動揺しても、皆さんの心は平然としていなければなりません。
神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられるということを知らなければなりません。神様が私たちに苦痛を与えるのは、神様との貴い一日、神様が経てきた苦痛の因縁を私たちに結んでくださるための、大きな約束であることを知らなければなりません。
そのような場で天を抱き締め、「一緒に行きましょう。共に闘いましょう。共に行動しましょう」と叫んで立つ人を探すために、そのような世の中が必要だというのです。 ですから皆さん、進む道がふさがったと落胆しないでください。この国が乱れると気落ちしないでください。
神様は死んではいません。この世界がどんなに乱れても、気落ちしないでください。神様は死んではいません。神様は必ず訪ねてこられます。すべてが動揺しても、天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。
天を頼って仰ぐ希望の心だけは変わらないでください。その心を変えようとするために、神様が皆さんをいかなる苦痛の場に追い込んだとしても、その場で天の父を呼ぶことができる心をもたなければなりません。いかなる場に落ちても、その場で天の心情のひもをつかんで上がろうと努力しなければなりません。
地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、天の父と共に参与する立場に立って天の父の苦痛を私が思いやって、その天の父は私の苦痛を察してくれることを信じて、そのような場でも行くという責任と義務を感じていくならば、皆さんは滅びないでしょう。
・・・・コメント始まり・・・・
「神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられるということを知らなければなりません。」
「神様は死んではいません。この世界がどんなに乱れても、気落ちしないでください。神様は死んではいません。神様は必ず訪ねてこられます。すべてが動揺しても、天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。」と仰っておられます。
これは、何を仰っているのかというと「創造原理に立ちなさい!」ということです。神は創造原理の主人です。神様がサタンに対し動揺するでしょうか?お父様がサタンに動揺するでしょうか?
本当の真の神様は創造原理の基準に適合した人や基台にしか訪ねられません。私達が宗教圏に留まっているのなら私達に訪ねてくる方々は宗教圏に留まっておられる天使達であります。
天使は創造原理の基準に立てないので天使なのです。どこまでも霊的なのです。霊的基準はどこまでも比喩や喩えや暗示的に地上に関わる以外にありません。明らさまに伝えるということは明確な原理違反ですので、比喩や喩えや暗示的に地上にメッセージを降ろすしか道理がないのです。
私達はこれを原理で解き実用的なものへと変換しなければなりません。霊的なのもは、どこまでも地上の人間が自らの責任で宗教圏を乗り越えて完全なる真の創造原理の基準からこれを分別しなければなりません。
もう一度重ねて申し上げます。
主義や信仰では駄目だという観点です。「主義や信仰」と「創造原理に立つ」は違います。これは、信仰(宗教)を卒業し原理圏に立つということは本質的に違うということを仰っているのです。
聖書史には、天使長宗教圏・新婦圏宗教圏(キリスト教の再現である統一教会圏)を越えて行くために大動揺が設定されているのです。統一教会のご子女様以下我々信徒が宗教圏を越えていかない限り、つまり、本当の真理である創造の原則に立ちあがって行かない限り大動揺は終わらないのです。
・・・・コメント終わり・・・・
≪み言続き≫
今日、数多くのキリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして何名になるでしょうか。私たちは天の父に侍るのに、天上の宝座に座っていらっしゃる父に侍るのではなく、死亡の波打つ中で真の息子、娘を探すために御苦労される天の父に侍らなければなりません。
・・・・コメント始まり・・・・
このみ言は1961年のものです。
当時のUC草創期の先輩方に語られたものですから、これは「既成キリスト教」の事を引き合いに出して「今日、数多くのキリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして何名になるでしょうか。」と投げかけておられるみ言に聞こえます。
しかしながら、2000年までを厳密厳格に一寸の余地なく「敢えてキリスト教を再現する為に統一教会をコントロールしてきた」という観点からすればこれは違います。
今、2000年を越え、再現されたキリスト教は「統一教会」です。「今日、数多くのキリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして何名になるでしょうか。」これは、今日の再現されたキリスト教である皆様の「統一教会」を指しておられると考えてみなければなりません。
つまり、統一教会の信徒にそういう信者が果たして何名になるでしょうか。と、問われているという様に捉えなくてはなりませせん。
・・・・コメント終わり・・・・
≪み言続き≫
その天の父を私の天の父と知り、その天の父の事情を私の事情として、その天の父の心情を私の心情として、その天の父の願いを私の願いとして訪ねてこられる天の父の前に雄々しく立って、「あなたの息子を探すことがあなたの願いであることを知って、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、あなたの事情であることを知って、失った息子を抱き締めて愛したいのがあなたの心情であることを知りました。どのような塗炭の苦しみと艱難と難しさの中にあったとしても、私があなたの願いの実体であり、事情の実体であり、心情の実体です」と自信をもって立たなければなりません。このような者であってこそ天の父の息子であり、またその天の父に侍ることができる者になるということを皆さんは知らなければなりません。
・・・・コメント始まり・・・・
神様とお父様にとりまして、「あなたの息子を探すことがあなたの願いであることを知って、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、あなたの事情であることを知って、失った息子を抱き締めて愛したいのがあなたの心情であることを知りました。どのような塗炭の苦しみと艱難と難しさの中にあったとしても、私があなたの願いの実体であり、事情の実体であり、心情の実体です」と自信をもって立たなければなりません。
と、あります。この様に立ちあがったのが他でもない権進様であろうと私達は考えています。
・・・・コメント終わり・・・・
以上でした。
いつも長文にお付き合いくださいましてありがとうございます。
『権進様の第三の手紙』リリースまで今しばらくお待ちくださいませ。
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