東京国立近代美術館にて、『下村観山』展です。
知らない芸術家だったので流していたのだけど、テレビ番組で観て会期ギリギリに駆け込みで観に行きました。
『横山大観』と並び賞されるほどの芸術家なのに何故今まで知らなかったんだろう。
現場の解説と共に。
『線』

東京美術学校在学中のなかでも初期の語と考えられる。このように線を描いたものは、 確認できる限りでは、難山など同校の第1回入学生による作品に限られている。開校当初在任中だったアーネスト・フェノロサによるカリキュラムに基づいたか。こうした作品は、 校での研究課程をたどるための貴重な資料でもある。
『写生』
左上:貝
左下:蓮根、くわい
右上:笹
右下:蕪

東京美術学校入学後間もない頃、授業の課題として描かれたと考えられる。墨と筆を用いて対象を正確に描き表す技術を身につけるためのもの。画塾から学校へと、観山の絵画学習が新時代の方式に切り替わったことがわかる。

左『許由』
中、森狙仙『狼図』
右『雨の芭蕉』

左『鵜飼』
鵜飼を行う鵜匠と鵜が川を前にたたずむ様子が描かれている。青と黄の塗り重ねで川の流れを示し、 淡い灰色のなかに油滴のように下地の色を見せる独特の描法で、白い石の集まった川岸を表現している。観山がさまざまな表現の実験を行っていた様子がうかがえる。
中『美人観桜』
日本美術院の若手画家による絵画研究会の課題画。課題は「縝密」。心配りや考えが細やかで注意深い、という意味。女性が手にする手紙はおそらく恋文であろう。それを満開の桜を介して意中の相手に届けるという、平安文学に通じる細やかな心理描写を、江戸の風俗を借りて行っている。
右『驟雨』
『唐茄子畑』

カボチャ(唐茄子) 畑にうずくまる黒猫。その視線の先には飛び立つ一羽のカラス。金地は照りつける夏の陽光を表す。カボチャの茎と葉の産毛は細かく、実の表面も凹凸が克明すぎるほどに表されている。変色した支柱の表現も写実的だ。現実離れした細密な描写は、次世代の洋画家・岸田劉生らが数年後に取り組んでおり、観山は偶然にも時代を先取りしたといえる。

上『行旅図』
初公開の作品。左下の落款「Kanzan」 と印章 「観山」 はロンドン滞在中の作品と考えられている《不動明王》(1904年頃、本展不出品)にあるものと同じである。この印章は滞英中の《雨中行旅図》【1.2.07】、 <帰猟の図》 【1.2.09】 (3/17-4/12展示)にも使われている。さらに《不動明王》 《帰猟の図》と同じく絹に描かれ、サイズも近いことからこの《行旅図》も滞英中の作品の可能性が高い。
左『ダイオゼニス』
1903年の第15回日本絵画協会・第10回日本美術院連合絵画共進会にロンドンから出品された作品。古代ギリシャの哲学者・ディオゲネスを描いている。アーサー・モリソンに観山が贈ったくディオゲネス〉 【1.2.03】 (大英博物館)が水墨画風であるのに対し、こちらは穏やかな着色画。海外の鑑賞者、日本の観客という具合に、誰が作品を見るかによって画風を変えている。
右『倫敦(ロンドン)之夜景』

達磨が岩窟のなかで壁に向かって座禅を組むおなじみの図像だが、題名は「達磨」ではなく「静清」。西行法師を描く〈静清(西行詣白峯)》【2.3.04】 (3/17-4/12展示)も同じ題名だ。著名人の姿を描き出すことよりも「静かで清らかなさま(静清)」の表現に重点を置こうとする観山の意思がうかがえる。
中『納涼図』
戸外で豹皮の敷物に横たわる高士。左の卓上には食べ物や匙のようなものが入った鉢が、その手前には皿を持つ従者が立つ。横たわる人物の背後には大きな岩が、空には雲間に星が輝く。中国絵画に寝台に横たわる高士を描いたものとして消夏図があり、その多くは屋外での夕涼みの様子を描く。 本作も消夏図を意識したものと考えられる。
左『新緑』

左上『天台登山図』
天台宗の開祖・伝教大師最澄の生涯をたどるく伝教大師絵伝(宗祖御伝絵))の1幅。最澄の入寂一千百年大遠忌に際して制作の依頼がなされた。遣唐使船で唐に渡った最澄が、天台宗の聖地・天台山に登り、仏隴寺座主の行満から教えを受ける場面。建物のなかにいる正面向きの若い僧侶が最澄、 横向きの老僧が行満であろう。
左下『蒙古調伏曼荼羅授与之図』
鎌倉時代の元寇に関する画題。来襲した蒙古軍の調伏を僧の日蓮が祈り、派兵される若い武将に旗曼荼羅を与える場面。福岡市にある本作の収蔵先には、高さ10mを超える巨大な日蓮上人銅像が立っている。その建立にあたり行われた図案懸賞で、観山の案は一等に選ばれた。銅像は1892(明治 25)年に起工、1904年に完成しており、本作はその制作中に描かれたことになる。
右『日月』
日韓併合下で日本の王公族となった李王家の皇太李垠と梨本宮守正王の長女・方子女王が1920 年に結婚した。観山は宮内省から依頼を受けてこの双幅を制作した。画中の富士、松いずれもが吉の意味を持ち、婚礼の祝賀の念が込められていることがわかる。

上『稚児文殊』
知恵をつかさどる文殊菩薩をこどもの姿で表すことは、日本でも古い作例がある。愛らしい童子と勇ましい獅子の組み合わせで描かれるのが通例だが、本作では獅子までもが家族でくつろぐ姿で表されており、和やかな雰囲気である。菱田春草のためきち兄・為吉への贈呈品。
左下『住吉明神』
右下『三猿』

上『辻説法』
日蓮宗の開祖・日蓮が街頭で法華経の教えを説く場面。東京美術学校在学中に描かれたものである。 人物を生き生きとした躍動感とともに描く手法には、古い絵巻物からの学習が生かされている。美術学校在学中の(画稿貼込帳】 【1.1.R02】には鎌倉時代の〈一遍上人絵詞伝》(藤沢道場本)から人物を写したものがあり、それをそのままこの作品に転用している。
左『鍾馗』
中国・唐時代の玄宗皇帝が病気に苦しむなか、夢に現れた鍾馗が鬼を退治すると快方に向かったことから、鍾馗は日本でも魔除け、疫病除けの神様として民間信仰のなかに溶け込み、勇ましい姿が悪いものを退けるご利益があるとして、古くより絵や人形としても表されてきた。本作は、和泉市久保惣くぼそう記念美術館が所蔵する中国元時代の(鍾馗図)を参考に描かれたと考えられる。観山は、右手を振り上げ、左手で首をつかんだ鬼をまさに打とうとする鍾馗を躍動感あふれる姿で描いている。
右『城外の雨』
雨で水浸しの戸外を人々が行き交う、中国の市井の情景。「観山会画集」【2.3.R01】に渋沢栄一所蔵として掲載される。企業活動から教育、福祉まで幅広く関心を持ち、弱き民への眼差しも忘れることがなかった栄一の関心を反映している。1914(大正3)年、栄一は視察で中国を訪れ、漢詩「青淵先生七絶十二首」で「姑蘇城外雨初晴」と詠んだ。姑蘇は中国・蘇州のこと。本作に描かれた壁や建物は蘇州城のものに近く、本作は栄一の蘇州訪問とも関係のある可能性が高い。
左『弁財天』
右『毘沙門天』

内閣総理大臣も務めた松方正義と夫妻の金婚祝いとして、三菱財閥を主宰する岩崎家から発注された作品。毘沙門天、弁財天ともに財福をつかさどるが、新発見の本作の下図 【2.1.R01】によれば、右隻の毘沙門天は頻傭羅大将として構想されていたようだ。画中の毘沙門天の持つ矢も、もあにらたいしょう羅大将の持ち物。頬傭羅大将は十二支の未をつかさどり、弁財天は蛇(巳)を使いとする。正義は未妻は巳年の生まれであることから、贈られる相手を意識して尊像が選ばれたことがわかる。
画面に書き込まれた「北心斎」の号は、狩野芳崖に授けられたとされる。狩野派の絵画学習の基礎課程にのっとり、古画の模写を中心とした「粉本」と呼ばれる絵手水を、観山が描き写したものと考えられる。
松は竹、梅とともに清廉潔白を意味し歳寒三友」として中国の文人画に登場するほか、日本絵画でもたびたび描かれてきた。能では「高砂」で松の精である老夫婦が松の徳を説く。松は季節や時間によって姿を劇的に変えることはない。雪により松の色は深みを増し、末永く続く時代を象徴する、 非常にめでたいものである。能に関わりが深く謡曲「高砂」を絵画化したこともあった観山にとって、雪と松が単なる伝統的な画題でなかったことは想像に難くない。
右『猿猴』
絵画化されたテナガザルといえば、13世紀後半の中国・南宋元初の僧である牧谿の猿猴図がよく知られる。14世紀には日本に伝わり、多くの日本人画家によって描き継がれてきた。観山の描く本作も、長い腕、淡墨の刷毛目を生かした毛並みの表現は牧谿の猿を思わせるが、顔立ちは現実の猿により近い。

左『草盧三顧』
「三顧の礼」として知られる「三国志」の一場面。 雪のなか、のちに蜀を建国する劉備が、義兄弟の関羽、張飛をともない、聡明と名高い諸葛亮を軍師として迎えるべく、その庵を訪問する。左幅中央の人物が劉備、その後ろにいる二人の右が関羽、 左が張飛だろう。「観山会画集第二」 【2.3.R03】に掲載されている。旧蔵者・尾高幸五郎は日本美術院再興の際も、賛助員として名を連ねている。
右『三保の虹』
作品の添状 【2.3.R07】から、本作は第8代横浜市長を務めた久保田政周の退任に際し、職員一同から贈られたものであることがわかる。
三保の浦は古くから文学や絵画に取り上げられてきた。『万葉集』巻第3には、田口益人大夫が上野国 (現・群馬県)の司として赴任する時に作った歌「盧原の清見の崎の三保の浦の寛けき見つつもの思ひもなし」 (盧原の清見の崎の三保の浦の豊かな海を見ていると旅愁もどこかへ消えるようだ)がある。職を退き人生の新たな扉を開こうとする政周の境遇は、この益人のそれに重なるだろう。観山画では旅愁を忘れさせるほどの絶景・三保の浦に幸福を暗示する虹が架けられることで、政周の新たな門出が祝福されていると解釈できる。
『木の間の秋』

下草や木の幹に絡む色づいたツタ、右から左へ蔓を伸ばすヤマブドウは写生的に描かれる。画面全体に金泥を塗ったうえで、遠くから近くへと次第に色を濃くしながら樹木を描いていくことで、差し込んだ光が木立にたまって見える。右の屏風の左上には、右上から左下に向けて金泥が刷かれており、差し込む陽光を表す。このように、金という伝統的な画材を使いながら写生的な表現を目指す姿勢は、観山の留学経験のたまものだ。なお植物の葉脈は金で描かれており、琳派など先人の表現も意識されていたことがわかる。
『竹林七賢』

竹林の七賢とは中国の魏・晋の賢人で、古くから世俗を離れ竹林で琴棋書画や談話を楽しむ様子が絵に描かれてきた。この作品の右隻の左端には、 《月下弹琴》【2.1.09】と同様に岡倉天心に顔立ちが似た人物が描かれている。談笑の輪から遠ざかるように左へと歩むことから、東京美術学校を去り日本美術院を設立した天心の境遇を暗示している可能性があり、残りの6人も天心と関係のある実在の人物を表していると想像される。

左『菊慈童』
白菊茂る霧深い山奥に佇む仙人・慈童の姿、観世流では「菊慈童」、その他の流派では「枕慈童」で知られる能に取材している。魏の文帝の命で薬水を求めて山に入った廷臣は、菊の咲き乱れる山奥で慈童に出会う。慈童は周の穆王に仕えていたが、 王の枕をまたいだために山に流された。その時枕に書いて賜った法華経の傷を菊の葉に写すと、葉から滴る水は不老不死の薬となり、それを飲んだ慈童は700歳の命を保つ。
右『荘子』
荘子は中国・戦国時代の思想家。横たわる荘子の体が、少しずつ目を開けながら分身のように分かれて宙に浮いていく。その先には3頭の蝶が舞う。 書物『荘子」の中の「胡蝶の夢」を絵画化したものか。ある時自分は夢の中で蝶となった。自分が夢で蝶となったのか、自分は蝶で荘子が夢の中の姿なのかどちらか分からない、というもの。本作も 「観山会画集第三」 【2.3.R05】に収録されている。 当時の所蔵者の野口弘毅は第一銀行の各支店長をつとめ、のちに同行取締役、渋沢倉庫監査役を務めた財界人。

左『天心岡倉先生』
日本美術院創立25周年にあたる1 1立25周年にあたる1922 (大正11)年の再興第9回院展で、観山は〈天心先生〉と題する作品を発表したが、関東大震災で焼失してしまった。これを惜しんだ観山によって、手元にあった画稿に加筆されたものがこの作品。卓上の巻物には、1910(明治43)年頃に岡倉天心の構想により観山が制作することになっていた「源平盛衰記」 (未完)の草案が貼られている。
右上『雨中鷺』
イギリス留学から帰国後、観山は木々を墨のみで表した作品を何点も制作している。表現の肝は、 木々が日本的な水墨表現でシルエットとして捉えられている点だろう。画中の月あるいは太陽は、 単に時間や場面を示すだけではなく光源の役割をも担い、墨の濃淡やぼかしによって、光に照らされた奥行きのある世界が描き出されている。同様の表現は既に滞英作で見られ、留学中から革新の構想が始まっていたと考えられる。
右下『竹の子』
観山の絶筆。体調不良が続くなか、知人から送られた筍を写生し、1週間を費やして完成させた。抑揚のない線で静物を細部まで描く手法は中国・宋代の絵画を思わせる。観山は大正時代後半に宋代、 元代の絵画にもとづく作品を集中的に制作した。 柔らかく繊細に描いたものが多いなか、本作の描線は太く彩色も濃厚で、筍の存在感を力強く示している。絶筆でありながらその後の画風の展開を予感させる作品。
『大原御幸』

謡曲を絵にする際に、謡曲の詞章や先行する絵画図像を単純になぞるのではなく、他の曲の詞章をも参照することで、主題の世界観を象徴的に構築している。観山の複雑な制作過程を示す作品である。
左下:謡曲「大原御幸」の詞章にもとづけば、月は後白河法皇が去った後の大原の静かなさまを暗示していると言える。しかし観山は8年前に描いた《修羅道絵巻〉 【1.1.32】の最後にも月を描いている。この月は煩悩の迷いが晴れることを象徴する「真如の月」 で、「真如の月」は修羅物の謡曲 「八島(屋島)」にも登場する。〈大原御幸〉の月も同様に、建礼門院の先帝への妄執がやがて消えることを暗示していると解釈できる。
『まひわの聖母』

『魚籃観音』
中央に描かれた女性は三十三観音のひとつ、 観音。魚を入れた籃を持つ。説話によれば、市井に生きる女性として魚を売り歩いていると、男性たちから求婚の声がかかった。観音は一晩で経典を暗誦できるようになれば応じると答え、最後に一人に絞られた男性と結婚した。人差し指をあげた右手の仕草は結婚の条件を提示している様子を表しているのかもしれない。
観音の顔はレオナルド・ダ・ヴィンチの〈モナ・リザ〉を念頭に描かれている。もととなる西洋絵画がここまで明確に分かる作品は、観山の生涯を通じても珍しく、新たな表現への挑戦を示しているかのようだ。
『三聖之図』

右からキリスト、釈迦、孔子と、キリスト教、仏教、 儒教の開祖がひとつの画面におさめられている。 中国には仏教、儒教、道教を一体とみる三教一致思想があり、それに基づき釈迦、孔子、そして道教の開祖である老子を一緒に描いたものが、元来の「三聖図」である。本作では老子が、キリストに置き換えられている。
『闇維』

題名の「闇維」とは、荼毘と同じく遺体を火葬し弔うこと。釈迦を荼毘に付す場面を描く。釈迦が収められた中央の金棺を仏弟子たちが囲んでいる。 壇に火をつけたものの燃えずにいたが、弟子の摩訶迦葉が祈りを捧げると、棺の中から自然に煙がたちのぼり、空から花びらが降ってきたという。 西洋のキリスト教絵画も意識しながら、群像表現による壮麗で劇的な大画面絵画に仕上げている。 日本美術院創立後、初の展覧会に強い意気込みを持って出品され、横山大観の〈屈原〉(嚴島神社)とともに、最大の評価を分け合った。

狩野派の伝統的日本画をベースに西洋美術を取り入れ、既存の西洋絵画を模した作風は秀逸ですね。
全部が写真OKではなかったのでまだまだたくさん紹介したい作品があるんですけどね~。
今後も注目していきたいです。








