お立ち寄りありがとうございます。
前記事の続きになります。
堅っ苦しいタイトルにも関わらず、開いて頂きありがとうございます。
えーと。
ロマン派あたりまで来ましたね。
それまで教会や王侯貴族のモノだった芸術。
宮廷のお抱え絵師が王女の肖像画を描いて、お見合い写真代わりになっていたのが
一般の民衆の市井の生活を描くようになったり、音楽もそれまでと違って、表題音楽が主流となったり、
それまでよりも自由に、自発性を持って作品を作るようになりますが…
そこに登場する問題が経済です。
それまで教会や宮廷、貴族等の庇護の元に生計を立てていた音楽家達は、例えば出版社に楽譜を売ったり、演奏会を開いたりという自主的な経済活動をするようになります。
ある程度一般ウケするコンテンツが求められるようになりますので、考えてみれば
作りたいものと、売れるもの…これに纏わる葛藤は、この頃から変わらず、芸術家の永遠の課題なのかもしれません。
この辺りの葛藤に、ある意味抵抗して活動をしたのが、いわゆる前衛芸術家達です。
分からない奴はほっとけ
見る目のある奴、聴く耳のある奴だけ
見るがよい!聴くが良い!
そのような、いわば開き直りに近い様なスタンスで独自の路線を行く芸術家達も少なくなかったのが20世紀。
前衛音楽は時に難解を極め、むしろ難解であればあるほど高尚だとされていた節もあったように思います。
その頃になると、そのような音楽とは完全にルートを外れた所に
大衆音楽、歌謡曲、ポップスなども派生してきます。
けれど、土着の民族音楽からJAZZやBluesが生まれるように、そもそもの母体は一緒なのです。
何かを伝えたい。
心臓の鼓動がビートを刻むように、
楽しければ笑う、その笑い声のように
悲しければ泣く、その泣き声のように、
音や声で何かを伝えたい…
源流はそこです。
では、
商業音楽と芸術としての音楽の境界線は、一体どこにあるのでしょうか?
多分、それは
時間による風化に耐えうるかどうか。
「売れる」事のみを目的に作られたものは、まさに流行り廃りに飲み込まれますので、
commercialismや消費者のニーズに主眼を置いた物、つまり、時間経過と共に淘汰されるような一過性のコンテンツは、
芸術作品としては残り得ないのではないか…と、私は考えています。
少し話は逸れるかもしれませんが、
ユンギが坂本龍一さんを尊敬している事や、
彼の作品づくりからも
私は、前衛音楽家としての気骨やプライドに近いモノを感じるのです。
彼のラップの底流にある怒りや葛藤は、
自分の音楽、自分達の歩んできた道のりへの嘲笑に近い過小評価を
いつか見返してやる!俺は俺たちの信じた音楽を続けていく!という叫びにも近くて、
POPSの世界にいながらにして
大衆にただ迎合するのではない、真のアーティストとしての矜持を感じさせてくれます。
クラシック音楽の世界にいる私が、これほどまでバンタンに惹かれてしまうのは、もしかしたら
彼らの音楽に…大袈裟に言うと、
「音楽家としての魂」の真実を見せてもらっているからなのかもしれません…
わぁーー…
まだ終わらない。
なんでしょう、これ、、
何かの論文みたいになって来ちゃいました。
どうしよう…
まだ続けても大丈夫でしょうか???
多分、次こそは終われそうな気がしています。
お前、どーすんだよ。
ホントに終われんのかよ?
う、うん。
書き始めちゃったから、
なんとか最後まで書いてみる。
ほんとにスミマセン🙇♀️
多分、今日中には着地致します。
呆れユンギの画像はお借りしました。
ここまでお付き合い下さった方がおられましたら、ありがとうございます。