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旅中毒

バックパックと少しのお金とパスポートがあればいい。行けば行くほど行きたい場所が増え、人生狂って後悔なし!

2019/4/30

 

アバディーンから電車で20分ほどでストーンヘイヴンに到着。駅が可愛らしい。

 

 

アバディーンみたいな大きな町から来ると、ストーンヘイヴンはいかにも地方の町です。駅も、そのサイズの小ささと共に、町から離れているって点で「地方だなあ」と感じる。都会だと駅の周りに商業施設が集中して繁華街になっているよね。

 

 

地方の小さな町や村では駅が中心部から離れている事が多い。その理由って、一説には、「悪いものは外から来る」という発想の元、自分たちの暮らす土地から離れた場所に交通機関を通すからだって。私の親戚の地元も、駅を作りたいというJRからの申し出をけんもほろろに撥ねつけたそうです。結局、近くの別の町が受け入れて、その町はその後どんどん発展し、親戚の地元は過疎一直線…。また別の知人の話では、彼の地元にも昔国鉄(国鉄の時代)が駅を作りたいと言ったら大昔からの有力者たちが反対し、賛成する庶民たちと対立。結局、新興有力者の大地主が「うちの土地に通せばいい」と申し出て、今では駅を中心に栄えていると。

 

ストーンヘイヴンの駅はかなりの高台にあります。今から町に降りていくのだ。

 

街並みがなかなか素敵なので後で写真を撮ろう…とか思って結局、撮らずに帰ってきてしまった。のでストビューで。ここがメインストリートですね。

 

上の通りの突き当りがあるのがマーケットスクエア。その中心に建っているこの建物は、特に名前がないみたい…。由来がありそうに見えるのに。

 

上の写真に写っている通り。これもストビューから。

 

この近くにあったベーカリーに入ってみました。おやつにコーニッシュパースティを購入。それから海沿いの道をゆっくりと、ダノター城に向かって南下していきました。

 

EUの旗がはためいているおうちがあったよ。ブレグジット反対派?

 

少し暑いし、通りすがりのお店(このストビューの写真の右側のお店)でお茶かアイスクリームでも…と思ったけど、結局、入らなかったな。

 

港に面したこの辺りもステキ。海沿いとしてはここが一等地ではないかしら。こんなレストランのテラス席でお魚でも食べたいわ。高そうだけど。

 

それにしても、お城へはこっちでいいのかしら…? 海沿いの道を行くとだけ思ってきたけど、崖の上に行かないといけないんでは? この先、道が本当に続いているのかしら?

 

不安になって、通りかかった年配の女性に、お城へ行くにはこの道でいいのでしょうか?と聞いてみたら、「あらあら、こっちじゃないんですよ!」と笑って、一本奥まった路地まで連れて行ってくれました。そして小さな道の先を指さして「この道を上に上がって左に行けばお城に着きますよ」と教えてくれました。ご親切にどうも…。きっと迷っちゃう観光客も珍しくはないんだろう。つい、海辺のステキな道にフラフラ迷いこんじゃって。

 

この上り道が結構な坂でしんどかったけど…・

 

上に上がってしばらく車道を歩くと、こんな崖の上の道に出るんだよ。良い眺め。

 

車道を歩いても行けるけど、どう考えたってこっちがいいでしょ。

 

お城が見えてきた。逆光になっちゃうのが残念。

2019/4/30

 

フィッティーを離れ、今度は町の中心に向かって歩いてまいります。港から中心へは、結構、坂道でしたよ。地図を見ているだけではわからんことやね。自転車で走る時とかね!

 

この広場の第一の見どころは、メルカート・クロス。これはスコットランド風の言い方で、イングランド風に言うとマーケット・クロスだそうです。

 

中世において、定期的な市を立てる権利を君主から与えられた都市をマーケット・タウンと言いまして、その市が立つ場所に建てられたシンボルがメルカート・クロスです。でもこのメルカート・クロス自身は1686年の製作なので、近世に入ってから作られたものですね。

 

奥にあるお城みたいな建物は、救世軍の持ち物。「救世軍の教会と城塞」という名前です。救世軍って、今は日本語でもサルベーション・アーミーってカタカナで呼ぶ方が多いのかな? 世界中で伝道と福祉事業を行っているプロテスタントの団体。年末によく「社会鍋」って募金活動をしていますよね。 日本だと映画「吉原炎上」での軍歌が忘れられないって人も多く(私もだ)。リパブリック賛歌のメロディで 「引くな 進めよ救世軍 進め進め ハレルヤ」…。(リパブリック賛歌って、「おたまじゃくしは蛙の子」の替え歌でお馴染みの、あれね)

 

周りにもきれいな建物がたくさん。アバディーンは12世紀には既に大きな町だったらしいけど、14世紀に戦争で焦土と化しているし、まあ、そうでなくても大都市の中心部は開発が進むから、中世の建物は残っていないみたいだ。やっぱり近世の建物が多い。むしろ近世の建物がこれだけ残っているのをありがたいと思うべきだろうな。エディンバラでもそうなんだけど、こんな大都市でなぜ残せたんだろう。

 

アタマ真っ白でえらいことになっているこの像は、ゴードン・ハイランダーズ連隊の兵隊さんです。往来にある像の宿命とはいえ、これ、もうちょっと管理してあげた方が良くない…?

 

さて、次の目的地であるダノター城に行く前に、もうちょっと町を見ていこうと思っておりますが、ここで思案。アバディーンで一番行きたいオールド・アバディーンは、町の中心から少し離れているんです。往復にかかる時間を考えたら、町の中心でゆっくりと壮麗なる近代建築を見て周る方が良いのでは。

 

とか悩み、近くにあった観光案内所に入ってみました。近隣の観光資料などいただき、説明を受け、ついでにオールド・アバディーンに歩いて行ったらどれくらいかかるか聞いてみた。職員のお兄さん曰く、20分くらいとのこと。よし、だったら行こう。それで計算すれば現地で30分くらいは時間を取ることができる。充分とは言い難いけど、さっと見て周ることくらいできるだろう。(バスでも行けるけど、バス停に行ったりバスを待ったりしている時間が惜しい)

 

てことで歩き始めたのですが… 20分経っても、それらしき建物も標識も出てきません…。グーグルマップによると正しい方向に行っていますが、何度もグーグルマップに苦渋を舐めさせられた身としては100%の信頼を寄せる気にはならない。で、周りの人に聞いたりすると、「まだ先ですよ」って…。

 

結局、到着したのは歩き出して30分経った頃でした。話が違うわ!でも後からグーグルマップで所要時間を調べたら37分って出てきたから、まだ早く着けた方なのかな。私、歩くの速いし。

 

さて、オールド・アバディーン。この区画は元々は独立した男爵領自治都市で、アバディーン市に組み入れられたのは19世紀の終わり頃ですって。今ではアバディーン大学とキングス・カレッジのキャンパス、そして職員と学生の住居や彼ら相手の商店からなる大学街となっております。

 

これは15世紀の終わりに建てられたキングス・カレッジ・チャペル。クラウン・タワーのてっぺんのオーナメントの美しさよ…。

 

エントランスを抜けると、キングス・チャペルが一辺を成す中庭に出ます。19世紀に建て増しされた図書館もある。その奥にある通路を横に抜けていくと…

 

もっと大きな中庭に出ます。その中庭に面しているエルフィンストーン・ホールは、元々あったグレート・ホールの代わりに1930年に建てられたのですが、調和を壊さないデザインになっているね。

 

そしてこちらが20世紀に入ってから建てられた「ニュー・ビルディング」、通称ニュー・キング。

 

門には大学のエンブレムがあり、大学の創立年(1494年)と建物の建築年(1912年)が書かれている。

 

遠くに見えている白い円筒のポウィス門もチェックポイント。1834年に建てられたの。当時はこの門の向こうにポウィス家の邸宅か何かがあったらしい。今では大学の建物があります。

 

大学の建物だけでなく、街並みも良いので見たかったなあ。

 

あと、1789年に建てられたタウンハウスには当時は役所が入っていて、今では博物館。見たかったわ。それに、男爵領自治都市だった頃はアバディーンとは別に、ここにもメルカート・クロスが作られた。それも見たかった。マチャー大聖堂だって見たかったし、チャペルの中にも入ってみたかった! 旧市街は他の町でも見れるからと来るのを迷っていたけど、オールド・アバディーンはオールド・アバディーンにしかないんだ! 来ちゃったらウットリして長居したくなるのは目に見えていた!

 
でも予定していた電車を逃さないためには、もう戻らなくては…。とハイストリートまで戻ってきたら(戻ると言うほどでもない、ほぼハイストリートから動いていない)、バス停がそこにあるのだった。そして駅行きのバスが今にも来るところだった。ああ、バスに乗ろう。駅まで歩いたら今度こそ40分はかかる。
 
結局、オールド・アバディーン、滞在時間10分…。
 
さて、バスに乗ったおかげで20分で駅まで着きまして、少し余裕もできましたので、カフェで軽くお昼を食べてから電車に乗ろうかなと思ったのですが… お昼時でどこも混んでいる。席はあるけど、時間がかかりそう。てことで、出来合いのサンドイッチとお水を購入。
 

チキンとベーコンのサンドイッチ、美味しかった。以前は肉に肉を合せるというのが何となく納得できなかったんだ。ベーコンバーガーとか、グラーシュにベーコン入れたりとかも。でも今は、香りも味も強いベーコンを入れるとグッと風味が増すのだとわかるようになった。
 
アバディーン駅の広告。やはり地域性が出るね。

2019/4/30

 

フェリーターミナルを出てまず目指したのはFootdee。フットディーと読みたくなるけど、フィッティーと読むんですって。だからトリップアドバイザーにも Foot Dee (Fittie)と出ているよ。言った時には知らなかったから、道を尋ねる時に「フッディー」と発音しちゃってましたが、ちゃんと通じました。「あー、また外国人が読み方を間違えている」と微笑ましく思われていたのかも。

 

どういう場所かと言いますと、古い漁村の家並みが保存してある地域なんですって。グーグルマップでアバディーンの港の辺りを見ていたら写真マークが出ていて、「何か面白いものがあるのかな」とクリックしたら素敵な光景が現れて、「えっ、こんな場所があるなんて!行かなきゃ!」てなった。港沿いに徒歩20くらいだから近いしね。

 

現代的な工業地区の端っこにちょこんと一角だけこんな風に残っているの。

 

最初に文献に記録されているのは1398年だってさ。元はもう少し北にあったけど、町が大きくなって港も拡張されることになったので、村ごと移動したそうです。

 

元々はノース・スクエアとサウス・スクエアの2ブロックだけの村でした。19世紀になってから漁師と家族に住居を支給するために市が開発。1837年にはサウス・スクエアを貫いてミドル・ロウが作られました。そして1855年には港の水先案内人と家族に住居を用意するために、最南端にパイロット・スクエアができたそうです。

 

 

さて、古い建物が並ぶ辺りを通り過ぎ、港で荷揚げされたものを扱うらしき工場が並ぶ辺りを通りながら、「本当にここでいいの…?グーグルマップでも正しい方向に進んでいってるけど、そんな家並みが出てくるような雰囲気じゃないよ…」と思ってましたら、突如、それっぽい建物が集まっているらしき地区が…。

 

北から入っていきます。おお、いい感じじゃないですか…。

 

ここがノース・スクエア。

 

小屋みたいな家に住んでる人たちもいるのかと思うところですが、スクエアの中にあるこういう小屋は、今では各家庭が保有している納屋などで、ここに別の家庭が住んでいるわけではないらしい。

 

 

ノース・スクエアの真ん中にあるのがフィーティー・ミッション・ホール。地元の人には「スクーリー」と呼ばれているって。教会兼公会堂としても建てられ、今でも多目的ホールとして使われているそうです。

 

スクーリーを中心に広場があります。住人にとってはお庭でもあり、洗濯物がたくさん干してありました。

 

広場から北側を見る。

 

これは広場の南側。奥の建物は、ノース・スクエアの南端です。

 

元々は南北のスクエアに28の平屋の家が並ぶ小さな村でした。拡張工事が繰り返される中、1870年には、2階建て、3階建ての建物も作られるようになりました。『一つの家庭に一つの家』ポリシーによるものだったそうです。

 

サウス・スクエア。

 

フィーティーはこの通り歩行者と自転車くらいしか通れないんですけど、サウス・スクエアの真ん中を貫くミドル・ロウは、車も途中まで乗り入れできます。あまり魅力的ではないので写真は撮ってない。

 

やっぱりこういう場所の方が目を引きますよね。

 

 

これはサウス・スクエアとパイロット・スクエアの間の道が東側の道に突き当たるところ。

 
西の通りを、北から南まで歩いて突き当たった場所。パイロット・スクエアの南西角です。
 
こっちは南東角。

 

この角を曲がった東側の通りには、意匠を凝らした装飾を施した家が並んでいます。

 

 

この家の玄関の上には格言的なものが沢山貼ってあった。

「女房が俺は話をちゃんと聞かないって言うんだ。たぶんそう言ってたと思う」

「警告!引退した老人が住んでいます。何もかもを知っていて、それを教えるための時間も充分に持っています」

「ここには漁師が人生最高の獲物と一緒に住んでいます」

「引退し、職なし、ストレスなし、収入なし」

 

フィッティーの天気予報石。

石が濡れている:雨降り。  石が渇いている:降っていない。

地面に影がある:晴れ。   上が白い:雪。   見えない:霧。

揺れている:風が強い。   跳ねている:地震。   無い:台風。

 

このドアの国旗は何を意味しているのかしら。

 

多少古い建物でも、多層階の大きな建物は街中にもあるけど、こういう平屋の建物は意識的に残している旧市街か、田舎の村に行かないとお目にかかれない。

 
最初はあまり人が住んでいないのかなと思ったんです。売りに出している家もありましたし、人の姿を見かけないので。しかし阿呆な勘違いでしたわ。時間のせいでした。何しろフェリーから下船したのが朝の7時半。フィーティーに着いたのは8時前だったんですよねー。1時間くらい滞在しましたが、後半には家から出てくる人たちが…。
 
団体客も1グループだけ、来ましたよ。きっと前の晩にアバディーンに泊まって、朝早くに出発し、ここを見学してからどこかに移動するんでしょう。

 

フィーティーは完全に住宅街なので、中には店舗などは一切ないようでしたが、宿を提供しているおうちは何軒かあるとグーグルマップには出ています。フィーティーのすぐ外にはレストランやカフェが何軒かあるし、公衆トイレもありました。

 

2019/4/29

 

トークライヴとセッションが終ったら、21時を回っておりました。日が暮れたばかりではありますが、もう夜。

 

ライトアップされた大聖堂もステキですね。(なんでこんなに空の色が違って写るんだ)

 

この晩は、夜行フェリーでスコットランド本土まで戻ることにしております。

 

カークウォールのバスターミナルからフェリーターミナルまで、フェリーの時刻に合わせたバスが出ている。お昼に観光案内所で教えてもらった通り、バスの発車時刻は22時50分。1時間以上あるので、晩ごはんを食べるところを探してうろついてみる。

 

ちょうど、大聖堂やザ・リールの前に伸びる道が商店や飲食店の並ぶ通りらしい。

 

でも、どこも閉まってますわ… そりゃ、21時じゃねえ…。

 

この通りも、店が開いているうちに歩いてみたかった。ストビューで見てみるとこんな風 ↓。

 

 

どの店も閉まっちゃってるので、海岸に近い方に出てみる。普通の生活圏内よりも、人の出入りがある港近辺の方がお店も開いていたりするかもと思いまして… (写真を撮ってないのでここもストビューで)

 

 

あかん。バーなら開いているけど、食事は21時までと書いてある所ばかり。ストロムネスのホテルのバーもそうだったもんなー。もしかしたらアジア系のレストラン(タイ料理屋さんとか)は開いていたかも? 確認していないのでわかんないけどさ。

 

諦めてショッピングストリートに戻り、スーパーマーケットに入って夕食用のサンドイッチと朝食用のパンケーキを購入しました。そして店を出たら、ドアに「CLOSED」の札が出されていた。我々が最後の客だったのでしょうね。22時閉店らしい。危なかった~。

 

こういうの買う時って、なんか、50セントくらいの差に敏感になっちゃうよね? 旅行に来て散々お金を使っているくせに、「2.40ポンド? 高い… こっちなら1.90ポンドだし…」みたいな。

 

その後はさっさとバスターミナルに行き、そこでサンドイッチと水で簡素な夕食を摂る。フェリーターミナル行きのバスの出発時刻は22時50分。30分くらい待っていましたかね。寒かったなあ…。もうすぐ5月とは思えないっつか、やっぱり北国なんだなあ、と。バスターミナルの中で待てるのかと思っていたけど、もう閉まっちゃってて。外のプラットフォームのベンチで待つしかない。バスターミナルの前にもパブも何にもないんだよねえ…。

 

この時、同じバスを待っている若いバックパッカーがいて嬉しかったです。一人で待っていたら心細かったと思う。別に、バスが来ないかもと思っていたわけではないんだけど、やっぱり何か漠然とした不安のようなものがあった。夜で、屋外で、寒くて、周りに誰もいなくて一人ぼっちってのは嫌だ。

 

さて、無事にバスにて港へ到着し、フェリーターミナルの受付でスマホの予約画面を見せてチケットを発券してもらう。寝ている間にこのおじさんにスコットランド中部のアバディーンに運んでもらうのだ。

 

 

ラウンジの椅子で夜明かしすることもできるし、椅子に覆いが付いたみたいなスリーピングポッドもあります。椅子で寝ることには抵抗ないのですけど、『オープンスペースだから人の話し声が聞こえて寝られなかった』と言う口コミを読み、ちょっと不安になって女性用4人部屋の寝台を奮発。

 

 

船室に入りますと、下の寝台で既に誰かが寝ておりましたわ。このフェリーはシェトランドのアーウィックを19時に発っていますので、そこから乗ってきたのでしょうね。慌てて照明を消したら、「気にしないでー。灯りつけていいですよ」と言ってくれました。

 

私の寝台は彼女の上。寝台の上下は指定できませんでした。反対側の寝台は上下とも空いているのに私がもう一つの下段でなくこの上段に割り振られたってことは恐らく、少なくとももう一人は乗ってくるのでしょうね。てことで、すぐにシャワーにします。バッティングしたくないからね。

 

 

シャワールームはこんなにきれい。広いし。快適でした。

 

 

で、シャワーから出てきても、同室者はまだ来ていませんでした。部屋に入る前にどこかうろついているのだろうか…? と思っていたら朝に目を覚ましても、いませんでした…。だったら私も下段にしてくれたら良かったやん!

 

 

アバディーンには朝の7時半に到着です。なので、その時間には下船できるよう1時間前に起床して洗顔し、そっと身支度をしておりましたら、下段の人がまた「気にしないでー。灯りつけていいですよ」と言ってくれました。……てゆか、貴方は起きなくてもいいのですか…?

 

 

と思ってたんですけどね。船内アナウンスで「アバディーンに到着しました。カフェは9時まで営業しておりますので朝食をどうぞ」って。つまり、9時までは船内に客がいるものとされているわけですよね。きっと寝室にも9時までいていいんだわ。あの人、きっと慣れているんだろう。

 

 

船のレストランでの朝食にもちょっと惹かれたけど、私は昨晩のうちに朝ごはんも買ってあるからすぐに降りちゃって、フェリーターミナル内のベンチでパンケーキをいただきました。

 


 

2019/4/29

 

カークウォールの中心まで戻って来て、大聖堂の横のビジターセンターに入ってみました。ここでは素敵な絵葉書を売っています。あと、無料で大聖堂についての紹介ビデオを見ることができる。15分くらい。とても勉強になるよ。中にいた人が「日本?ずいぶん遠くから来てくれたんですね。オークニーなんて知らない人がほとんどでしょう」と言うので、「あら、私の周りは行ったことがある人と行く予定の人がいっぱいですよ」とお返事。やはり類友なのでしょうか。オークニー諸島って、日本で例えたら利尻島とか礼文島みたいなもんかしら。


ところで、やはりオークニーの首都であるカークウォールは大きな町ですわ。ストロムネスの人口が2200人で、カークウォールは9293人(2015年)だそうだから、村と町の違いですか。お店の数も全然違う。

 

これは市役所。

 

1884年の建物だって。中を見学できたらいいのに。1階にはカフェがあるから、それだけでも入ってみたら良かったかも。だけど、とにかく見どころあり過ぎで忙しくて。半日ってのが無理がありましたね。

 

 

それからまた大聖堂の前に戻りまして、もう閉まっていたけれど正面の前にあるベンチに座り、夕方の陽だまりの中でぬくぬくして楽しんでおりました。カークウォールに着いた頃は曇っていたけど、どんどん晴れてきて夕方はもう本当に上天気だったの。

 

 

陽だまりでウトウトしておりましたら、夢の中で音楽が聞こえてくる……。いやこれは……、夢ではなく現……? 目を覚まし、どこかでBGMを流しているのかしらと耳をそばだててみる。いやいや、これは生で演奏している音ですよ。

 

日向ぼっこを切り上げ、音楽が聞こえる方に歩いて行きました。そしてたどり着いたのが「ザ・リール」と言うカフェ。大聖堂のすぐ近くです。リール(念のため、カントリーダンスの1種、あるいはそのための舞曲のことです)ってくらいだから、やはり音楽カフェらしい。音楽はその中から聞こえてくる、確かに。

 

ちなみに、これがリールですって。

 

恐る恐るドアを開けて覗き込んでみると、何やら大勢の人が座って、色々な楽器を演奏しているではありませんか。カウンター前に少しだけ机と椅子が残っていて、そこでお茶している人たちもいるので、勇気を出して私も入りました。ココアを頼んで、相席させてもらう。

 

ずらりと並んだ演奏者たちが手にしているのは、一番多いのはフィドルでしたが、ホイッスルやアコーディオン、ギターにハーモニカにフルートなども。彼らの前には一人の男性が立って演奏していました。これは公開授業か何かだろうな…。飲み物代だけでこれを楽しめるとは。

 

ゆっくりしたテンポで練習中。

 

その授業が終わって皆さんは解散。お昼も食べていないことだし、ココアのお代わりを頼もうかとカウンターに行きましたら、「すみません、カフェの営業はもう終わってしまったので…」。あら残念。では、と去ろうとしたらお店の人が続けて、「でもこれから彼(先生、アリステア・アンダーソン氏)のトークライヴがありますので、いかがですか?」と売り込み。上手いわねえ。で、英語のトークライヴなんか聞き取れるわけないと思いつつもチケットを買っちゃった。

 

演台は、「私の音楽人生と、なぜ現代においても伝統音楽が大切なのか」でした。大切な理由はいくつかあったけど、『演奏する場で生じる、その場にいる人間同士の化学反応こそが音楽の美しさの一つだから』というのをよく憶えている。

 

トークライヴの後はセッションが始まりました!

 

 

実はトークライヴのチケットを買ったのも、半分は、後でセッションをしてくれるのではと期待していたからなのだ! アンダーソン氏と主催者らしき人(左端)が「ジャムりましょうか」となった時、別の人が2人、「あっ、じゃあ私も楽器を取ってくるわ」と…。この気軽さ、かっこいいなあ…。

 

4人によるセッション。練習なんかしなくても即興で合せちゃえるんだ…。かっこいい。

 

終った後、ネットにアップしてもいいですかと確認したら快く承諾をいただけました。そして「貴方はどんな楽器を演奏するの?」…  「何もできません」と答えるの、ホントかっこ悪いよなあ…。やっぱり私も何か演奏できるように習おうかなあ…。

 

とか思っていたけど、実はこの10月からティンホィッスルを習い始めました! まだ体験入学みたいなもんですけど、この記事をアップした前日が最初のレッスン日でした。楽しい! めっちゃ楽しいです!  実はね、私、小学生の時はリコーダーの特別クラスにいたくらいリコーダーが大好きでした。高校の時にはアルトリコーダーを含め3本持っていました。(まだ押し入れにあるはず) だから、今から習うのでも、またリコーダーが良いなあと思っていたの。

 姉 「そう言えばあの頃あんた毎日吹いてたよねえ。いいじゃない、またやれば?」

 私 「そうだね、じゃあ、押し入れからリコーダー探し出さなきゃ」

 姉 「いや…… 新しいの買えば……」

 私 「あ、そうか」

リコーダーでなくティンホィッスルになりましたが、のんびり楽しみます。

 

で、とにかく、このカフェはライブハウスでもありまして、色々とライブを行っているらしいので、カークウォールに行く予定の方はぜひチェックしてみてね!

THE REEL

 

2019/4/29

 

司教館も伯爵宮殿も、制約がなければ丸一日かけて堪能したいところでしたが、次の予定がありますのでしぶしぶ離れました。

 

次とはウィスキー工場見学です。カークウォールに現存する蒸留所は2ヶ所。1つが私が訪れたハイランドパーク蒸留所、もう1つはスキャパ蒸留所。皆がハイランドパークに行くようなので私はスキャパにと思わなくもなかったけど、スキャパはハイシーズンしか見学ツアーをやっていないとか聞いたし、ハイランドパーク蒸留所の方が近いので、ハイランドパークの方にしちゃった。

 

さてハイランドパーク蒸留所司教館から歩いて20分くらいでしたかね。多少、アップダウンのある道ではありましたが、静かな住宅街をずっと歩いて行く長閑なお散歩でした。途中に小学校があって、ドラマでよく見る、黄色い蛍光ベストを着た交通整理の人が子供たちを守っていました。

 

見えてきた、蒸留所。またしても逆光で…

 
ハイランドパークは有名なので観光客も多く、ツアーもこなれているとの噂。その通りでしたね。この写真の奥正面の建物の中に受付がありまして、そこで予約の名前を告げる。受付にいたお兄さんがたの体格の良さに少しビビりました。わざと筋骨隆々な人を揃えてあるわけじゃないよね…?
 

 

ツアーは2種類ありました。ヴァイキングソウル・ツアー(10ポンド)は最後に2種類の試飲、ヴァイキングヒーロー・ツアー(20ポンド)は最後に4種類の試飲を楽しめるのだ。私は慎ましくヴァイキング魂にしておきました。どうせ私じゃ味もわからんもんな。

 

ツアー参加者は30ポンド(だったっけ…)以上のお買いもので10%(だったっけ…)の割引してもらえるとのこと。激しく心惹かれましたが、普通サイズのボトルを買うのが躊躇われまして。だってまだ到着して3日目だし、車もない私はこの後も荷物を背負って歩き回らねばならんのですもの。だから観光客用のミニボトルとかないかしらと期待していたのですが、聖地にはそんな軟弱なものは置いていないようでした。(町の土産物屋か空港にならあるはず)

 

さて、時間になりまして、我々のガイドさんがやってきました。

「こんにちは。僕はセルジオと言います」 

 

…セルジオ? 

 

はい、彼はイタリア人でした。見た目からして南欧な顔立ち。スコットランドを訪れてすっかり好きになってしまい、移住して、今はここでガイドとして働いているんだって。そりゃ、スコットランドに住む日本人だって何人もいるんだから、他の国の人だっているよね。(オークニーには珍しいかもしれないけど)

 

最初に簡単なビデオを見て、少しテイスティングをさせてもらってからツアーに出発しました。

 

こうして床に広げるのをフロアモルティングと呼ぶそうな。昔ながらの伝統的なやり方。ハイランドパークでもモルト全体の2割程度しかこうして作っていなくて、あとはよその会社から買い付けるんだって。今ではフロアモルティングを使っている蒸留所はほとんどないそうで、それだけに「ハイランドパークと言えば!」の光景でもあるそうな。

 

もっと他にも、キルンでピートを燃やしているところとか、モルトをお湯と混ぜているところとか、写真に撮れば良かったな。他の人があまり写真を撮らなかったので気後れしまして。

 

 

樽はオーク材のシェリー樽。4年乾かしてカラカラにしてからシェリーを仕込んで、香りがたっぷり染み込んでからウィスキーに使うの。

 

 

撮影禁止のところもあったけど、企業秘密が写ってしまうからなの? あと、ここは部屋の外からでないと撮影したらダメでした。安全上の理由だって。空気中のアルコール度数が高いことと関係がある?

 

 

建物自体もステキなのよ。ここは18世紀終わりごろからの歴史のある蒸留所なので、100年前くらいのものは今でも普通に稼働しているのだ。

 

 

ツアー後、やっぱり大きなボトルは買う気になれなかったので、ウィスキーのファッジを買いました。このパッケージはストーンズ・オブ・ステネスを模していると思われます。きれいに持って帰ろうと頑張ったのに見るも無残にひしゃげている…。(姉夫婦にあげちゃったので自分では食べてない)

 

自分用にも何か買っておけば良かったなあ。トートバッグやTシャツ、デザインもかっこよかったし。ハイランドパークはノルウェイから受け継いだ文化も大事にしているので、ノルウェイの教会の彫刻などもモチーフにしているのだ。実にかっこいい。

やっぱりTシャツを買えば良かった。オークニーに行ってハイランドパークのTシャツなんて、いかにも 「オークニーと言えば!のハイランドパークに行ってきました!」 みたいでベタ過ぎてなんだか恥ずかしいとか思ったけど、気に入ったならそんなの気にすることないのに!

 

でも朝にメイズハウでTシャツを買ったところだったってのもあって、躊躇しちゃったんだよな。それでなくても旅先でやたらとTシャツを買い込むもので衣装ケースがパンパンになり、以前、片付けを手伝ってくれた姉に 「1枚買ったら1枚捨てなさい!」 と叱られたこともある。でも買えば良かったー!

 

蒸留所から帰る時、敷地の隣の道にオークニーの旗とスコットランド国章がはためいているのが目に。

 

「何あれ」と見に行きましたところ、宿泊施設でしたわ。ワイナリーがワインロッジを併設するように、ディスティリーもロッジを併設するのだな。ハイランドパークロッジ。1棟ごとの貸切なのでそれなりのお値段がします。395ポンドだって。家族とかグループ向けね。

 

 

道の更に奥にはなんか立派なお邸が。こっちはホテルですと。

 

ハイランドパークハウス。シングルならお手頃な62ポンド(繁忙期68)からあります。ダブルのスイートで128ポンド。塔のお部屋は140ポンド。まあ、手が出ないと言うほどでもないのでは?
 


 

買い込んだウィスキーで酔いつぶれて寝てしまいたい方には最適よ。
 

2019/4/29

 
続いて、道路を隔ててお向かいにある司教館に入ります。
 
この司教館、伯爵宮殿とセットのような配置に見えちゃうけど、本当は大聖堂とセットで建てられました。オークニー伯となったログンヴァルドが、1137年頃に故マグヌスのために大聖堂を建てるのと同時に、この司教館をウィリアム司教のために建てたのだ。元々はオークニーの司教座はメインランドの西端のバーゼイにあったんだって。大聖堂を建てるのに合わせてカークウォールに移ったらしい。
 
 
その頃はここはノルウェイ領ですので、司教も伯爵もノルウェイ人。なので、この司教館は元々は典型的なノルウェイ風のお邸だったと思われるそうです。1階が倉庫で、その上に長方形の大広間があり、塔に主の居住区が入っているという…。
 
 
でも現存する円い塔は16世紀に増築されたもの。そして、本棟の2階建ての上に3階が建て増しされた。会議のための大広間、司教の生活空間としての塔、そして礼拝堂を備えていたそうです。
 
入口を入ってすぐの場所。上の図で言うと、一番右の白い小屋っぽい所かな? 一番左のはたぶん、元は暖炉だったんでしょう。その隣、2つの長方形が並んでいるようなトコの下にちょっと穴が見えているのが、梁を通した穴かしら。でもここが床・天井のラインだとしたら右側の下の窓と位置が合わない気がする。1階の床は昔はもっと低かったのかな?
 
入口を振り返る。向かって左が、大広間などがあった部分に繋がっていく入口。
 
大広間の入口から見た光景。大聖堂が見えています。壁に赤と白の意志が使われているところ、大聖堂とのデザインの統一が見られますな。正面の階段が塔の入り口に繋がっている。たぶんここが2階の床の高さだったんだと思う。てことはやはり、1階の床はもう少し低かったのかな?
 
塔の入り口に続く階段から振り返ったところ。反対側の壁にある、さっき入ってきた入口は、床の高さじゃなかったのだろうか。だって、その横にある棚的な窪みと位置が合わないじゃない? 私みたいな物知らずには謎だらけだわ。ガイドさんが欲しかった。
 
この司教館の歴史で最重要なものの一つは、王様がここで亡くなったこと。1263年10月、当時ノルウェイ領だったヘブリディーズ諸島をスコットランドに攻撃され、ホーコン4世が老体に鞭打ってローモンド湖近くのラーグスまで遠征しましたが、悪天候の影響もあり大敗。艦隊が陸に乗り上げちゃうくらいの暴風雨だったってさ。ホーコン4世はオークニーまで撤退しました。で、翌年の夏に再びスコットランドに遠征するべくこの司教館で冬を越そうとしたんですが、病を得て12月に亡くなったそうな。(そしてヘブリディーズ諸島はスコットランドのものに)
 
1320年までには、司教館は放置されて荒れてしまったらしい。1468年に例のマルグレーテ王女の持参金のかたとしてオークニーはスコットランド領となる。そして1540年にオークニーを訪れたジェームズ5世の軍隊がこの司教館に駐留してしばらく後に、リード司教が大掛かりな改築を始めたのでした。
 
では塔の中に入ろう。リード司教が建て増しした塔です。上まで登れるのよ。西側にあるこの塔と対になる形で東側にもう一つ塔があって、そっちに司教の住居があったらしいです。現存せず。
 
この塔は楽しいぞ! 螺旋階段で上まで登れる。
 
途中から外壁が壊れてむき出しになっているけど、保存状態はいい方でしょう。
 
中世の城塞などに比べて近世の宮殿が(私にとって)つまらない理由って、壁がレンガや石積みじゃなくてペタッとしているとか、装飾はあれども基本の外観が四角くて今のビルと大して変わらないとか、機能性が高まったせいで間取りがきっちりしていて単純だとか、いくつもあるけど、螺旋階段が(ほとんど)使われていないことも大きいと思うんだよねえ。
 
ここまで、円筒の部分が4階建て。その上に2階建ての四角い建物が乗っかっている(上れません)。4階の天井であるこの回廊からの眺めが最高なのよ。お向かいの大聖堂を見る絶好のロケーション。
 
これは司教館の大広間の方を撮ったもの。

 

近世以後の司教館の主な出来事の年表は…

1541年 リード司教が着任し、司教館の修復を始める。

1558年 リード司教が死去。司教館はボズウェル司教の所有となる。

1568年 ボズウェル司教がホリルードに行くので司教館を手放す。

      例の悪人領主の親父の方、ロバート・ステュワートが司教館を手に入れる。

1610年 息子パトリックが悪行三昧の果てに新築の宮殿ともども司教館を取り上げられちゃう。
1614年 パトリックの息子ロバートが親父の指示で反乱を起こして司教館を占拠。
      反乱は失敗して同年ロバートは絞首刑(1615年にパトリックは斬首刑)
1638年 司教館が司教の手に戻る。けど、スコットランドの司教制度が廃止されちゃった。
  =しばらく軍隊の駐留などに使用される=
1671年 司教制度復活(1662年)を受け、またこの司教館に司教が住むようになる。
1688年 また司教制度が廃止になり、完全なる廃墟へと向かう。
 
これはエディンバラ大学の所蔵する絵。確かに今の塔がとは反対側に四角い塔があるようだ。16世紀にリード司教が修復する前の荒れていた時代の姿かと思ったけど、奥に見えている大聖堂に尖塔があるってことは19世紀か? でもその頃ってもうこの塔はなくて、反対側に円塔があったんじゃないの?

Original pencil drawing by James Skene of Kirkwall Cathedral and the Bishop's Palace; Pirate, The; Cathedral & Bishop's Palace of Kirkwall 

Skene, James. University of Edinburgh

CC BY - http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/

 

この絵とも合致するね、上の絵の塔の位置は。現存する円い塔は、この絵の状態が廃墟になった後に反対側に付け足されたって流れでOK?(この絵は現地の案内板を撮ったの。だからで葉っぱの影が)

 

この絵は19世紀の様子だって。現代に近いのだろう。今あるのと同じ側に塔があるもの。(奥に見えているのは伯爵宮殿)

 

The Castle of Scotland このページは司教館と伯爵宮殿のフロアプランも載っていて面白いよ!

 
塔が2つとも建っていた時期は本当にあったんだろうか?
Morray Foote  この人のサイトは最高です。写真もたくさんあるし解説が詳しくて素晴らしい)
 
 
大体はこのパトリックの野望図に近かったのかなあ? 想像で描かれた絵もあるから全ての絵がきっちり合致するわけではなく、不確実なところは残るとしても。ああ、タイムマシンで見に行きたいわー。
 
見るだけでいいです、暮らしたくはない。昔から中世ヨーロッパに憧れてはおりますが、同時に昔から、衛生面ひとつを取っても1日ツアー、せいぜい1泊2日ツアーが限界じゃないかと思っておりました。あと冬の寒さに耐えられそうにもない。
 
先日こんな記事も読んだよ。面白かった。
 

2019/4/29

 

東翼の2階にあるこれは、大広間です。

 

上の写真の3つ並んだ細長い窓は、対面している反対側の壁(下の写真)の屋根のラインより高いんだって。そこから推測するに、一つの部屋の中で天井の高さに差があったのでは、と書いてありました。

 

左手と正面に暖炉がある。この広間だけで大きな暖炉が2つもあるのか。

 

当時はこんなんだったのでは、という図。裏庭側から見た図ね。

 

窓も本当に優雅ですな。ああ、崩れずに残っていたら…。

 

城主一家の居住スペースはこの奥、北翼の中にありました。

 

パトリックの書斎や寝室、奥方のお部屋がこの棟の中にあった、と。

 

北翼から大広間の方を振り返る。丸いところは螺旋階段。3階までは上がれる(崩れてるけど)。

 

北翼から、最初に入った南翼を見る。この写真の正面の左端一階に見えている入り口が、私が入ってきた入口です。今度は南翼の上に上がってみるぞ。

 

大広間の、この真ん中の入り口の奥に螺旋階段がありまして、そこから南翼の上に上れます。写真の左端の入り口は、1つ前の記事に書いた南翼の2階と繋がっている。

 

さて、上はこんな風です。ここもゲストルームだったそうです。2部屋ありました。

 

振り返ったところ。向かって左の突き出ているところが、大広間の暖炉の煙突。その横に手すりが見えているところが下に通じる螺旋階段。

 

城主一家の住居がある北翼を見る… んだけど、これは建物の上の方まで入れたくてとった写真で、

 

こっちは建物の下の方まで入れたかったんですかね…。一枚に納められなかったのか。やはり広角レンズが要るね。どっちも捨てがたいので両方載せてしまう。見て。このステキさを見て!

 

さて、入り口があった南棟の1階まで戻ってきまして、今度は使用人たちのスペースに。ここはお台所です。この奥にかまどがあったんだな。大宴会を想定した厨房なので広いよ。

 

見えづらいと思いますが、正面の壁に穴が2つ開いている。真ん中の穴は、隣の部屋(たぶん貯蔵室)に繋がっていて、左上の穴は外の階段に繋がってるんだ。

 

階段側から見た穴。(右側ね。左側は棚です)

 

客室や大広間からの注文をここから伝えるための穴だろうって。もしかしたら料理をここから出して外で待機する給仕に渡したかもしれない、とのこと。面白いなあ。

 

通路の突き当りには井戸もあるよ。建物の中に井戸があるのは珍しくない? 元は、まだこの宮殿がなかった頃、司教館の離れ(納屋?)の中にあった井戸だろうって。井戸本体の石材は、17世紀の初めに建てられたこの宮殿ではなく、12世紀初めごろに建てられた大聖堂や司教館と同じなんだって。

 

上の写真の井戸の左に見えている入り口は、大広間の下の階、倉庫が並ぶ通路に繋がっていきます。通路の左側の窓は前庭に面していて光が入ってくる。

 

倉庫の数は5つ。各室に窓がある他、部屋によっては裏庭に通じる入り口もあったよ。

 

ここが突き当りの倉庫。ビールやワインや武器を置いておく場所だったって。

 

中をじっくり探検した後で外から眺めるのがとても好き。あの部分はこうなっているんだ、とか、間取りをゆっくりと咀嚼するの。建物は楽しいねえ。

 

この素晴らしい宮殿にパトリックは3年も住めなかった(自業自得だが)。そして宮殿は司教の手に渡ったりしつつ、100年後の18世紀初頭には荒れ果てて人が住める状態じゃなくなってしまった。そして18世紀中ごろには屋根をはがしてスレートを売りとばしたそうです。もったいない…。

 

2019/4/29

 

大聖堂の道路を挟んだすぐ横にあるのが伯爵宮殿。

 

オークニー伯爵であるパトリック・ステュワートが建設したものです。このパトリックと、彼の父親であるロバート(スコットランド王ジェームズ5世の私生児)が治めていた1581年から1609年までは、オークニーの暗黒時代だったそうです。二人とも大変な暴君だったので。

 

従兄弟であるジェームズ6世から司教館を住居として与えられていたのですけど、パトリックは司教館では満足できなくて自分のお城を建てたんだって。

 

 

このお城を建てるに当たっては当然領民を動員したわけですが、給料を払うどころか逆らえば投獄したりと、やりたい放題だったらしい。領地の行政も司法も権力で抑え込んであったので、法律なんて関係なし。更にパトリックはこの宮殿を司教館と繋げて一つの大きな宮廷にしようと計画。しかし敷地内に自分の所有ではない土地が含まれていたもんで、そこの地主を無実の罪で捕らえて処刑したとか… めちゃくちゃやな。でも結局お金が全然足りなくて司教館と繋げるのは断念したって。

 

(↑これは裏庭から)

 

パトリックはこうしたかったらしい。左側のが伯爵宮殿、右側のが司教館ね。これを見ると野望通り司教館を宮殿に繋げることができたかのように読めるんだけど、別の資料には計画は頓挫したと書いてある…

 

2代続いた放埓な領地経営と暴政により財政は破綻し、領民は疲弊しきって領地も荒れ果て、ついに1609年にジェームズ6世の命令でパトリックは逮捕され、エディンバラで投獄されました。しかし懲りずに息子ロバートに反乱を起こすよう指示。1614年、ロバートはオークニーでカークウォール城(現存せず)やこの宮殿を占拠して兵を上げましたが敗北。ロバートは絞首刑に処され、その後にパトリックも斬首されたのでした。1615年のことです。

 

ろくでなしとして歴史に名を遺したパトリックですが、彼の宮殿は素晴らしい。1607年にほぼ完成した、フレンチ・ルネッサンス建築の傑作です。廃墟となってさえその優雅さと壮麗さは損なわれていない。

 

 

18世紀にはもう荒れ果てて人が住める状態じゃなくなっていたそうだ。なんてもったいない…。昔のお城や邸宅が維持費の問題で廃墟になってしまうのが、もう残念で残念で。

 

 

南翼(上の写真の右側の建物)の東端(写真だと一番奥)の1階に出入り口があります。そこを入ると、下の写真の場所に出ます。左に行けば東翼(上の写真の左側の棟)に。奥に行って右に曲がると、短い廊下を通って台所に繋がっていく。そして手前を右に行くと…

 

 

こんな階段があります。

 

そこを上って曲がったところが、

 

お客様用の寝室です。台所の真上にあるので、お城の中で一番暖かい部屋だったはず。広いし、大きな暖炉もあり、大きな窓が両側にあって明るく、確かに城内で別格に立派なお部屋でした。

 

解説には「王の従兄弟という血筋から、パトリックは自分自身をも高貴な人物とみなされたがっており、この城に身分の高い客を迎えるつもりでいただろう。この部屋にジェームズ6世を泊まらせることも考えていたかもしれない」って。その前にやることがあるだろうパトリック。このお城を建てた頃はもうジェームズ6世からも見放されていたのに。

 

こちら、この客用寝室の入り口。実は入口のすぐ横に専用のお手洗いもあった。穴はなかったので、おまるを使うタイプだったんだろう。狭いところを無理に撮ってみたけど、わかります? ただの小部屋か物置にしか見えない…。でもこれ、400年以上前の、王族を迎える気で用意された専用トイレ付きの部屋だったんだな…。当時は専用トイレってとても贅沢だったんだよなあ。

 

 

上の左の写真の、入り口の奥に見えている階段は、東翼に行くための通路。その通路の両脇にも小さな部屋が並んでおります。

 

この部屋は恐らく城の執事の部屋だったろうとのこと。ちょうど南翼と東翼の繋がる角の部分にある部屋で、城全体を見渡せる位置にあった。入り口の大きな棚は、隣が暖炉だからよく乾いていて、きっと書類をしまっておくには最適だったろうって。

 

ちなみにパトリックの執事や事務官たちは、主人の暴虐のあおりを食らってひどい目にあわされたそうです。一人は暗殺され、一人は縛り首に…。残りの人たちも評判が地に落ちたらしい。

 

通路を挟んだお向かいの部屋。大広間で宴会などがある際の控室だったっけ…?

 

これ、何かしら。銃眼にしちゃ小さすぎるし、排水溝にも見えるけど水はけを気にするような場所じゃないし。蝋燭とかおいておく場所にも見える…けど、外に繋がる穴なんて必要?

 

2019/4/29

 

さて、カークウォールのバスターミナルに到着。ターミナルビルの中に観光案内所もあります。お目当ては絞り込み済みで大体わかっていましたが、何か面白い情報があればと思い行ってみました。

 

各施設やお店のチラシなど見ておりましたら、「何かお探しですか?」と職員の方が尋ねてくれました。で、自分が行きたいところを伝えて、周り方の相談に乗ってもらいました。結果、まずは大聖堂や伯爵宮殿なんかを先に見て、ハイランドパークの蒸留所見学は最終ツアーに参加することに。職員さんが電話をかけてツアーを予約してくれたよ。時間があれば無線博物館も行きたかったけど、無理でしたね。

 

更に、今夜乗るフェリーが出る港の場所と行き方を教えてもらう。町から少し離れているので、バスで行くのが良いとのことで、バスの番号と発車場所とちょうどいい時刻を教えてもらったの。ちなみにカークウォールのシティマップには右端に空白欄があり、メモに使えるようになっていた。これ便利だな!

 

市役所のお向かいにあるのが聖マグヌス大聖堂。オークニーがノルウェイ支配下にあった1137年に、ノルウェイ人のオークニー伯爵ログンヴァルドが叔父マグヌスのために建てました。

(本当はこれ、閉館した後に撮った写真。だから扉が閉じている)

 

オークニー(とシェトランド)がノルウェイ王国に正式に組み込まれたのは875年。マグヌスは従兄弟のポールとオークニーを共同統治していましたが、1114年に全面的に衝突。1116年に和議を結ぶはずの場で裏切られ、処刑されました。そして彼の遺骸が葬られた場所では数々の奇跡が起こりました。ログンヴァルドはポールの次に伯爵になったのですが、島民に『マグナスのために大聖堂を建てる』と誓って爵位を継いだのだそうな。マグヌスもログンヴァルドも後に列聖されています。

 

 

教会建築は通常なら教会の持ち物ですけど、この大聖堂はカークウォール市民が所有しています。1468年にオークニー諸島がスコットランド領となった際に、大聖堂はカークウォール市に帰属することになったんだって。今はプロテスタントである長老派教会の教区教会になっているので、キリスト教における厳密な語義としては大聖堂ではない。でもまあ、大きな聖堂を一般に大聖堂と呼ぶので、それでいいらしい。

 

 

ちなみに何故ノルウェイがオークニー諸島(とシェトランド諸島)を手放したかと言うと、デンマーク・ノルウェイ王女だったマルグレーテ姫がスコットランド王ジェームズ3世と婚約した際、持参金の保証として貸与されていたんだけど、結局現金で支払い行われなかったから、そのまま所有権が移っちゃったのだ。

 

建設当時のロマネスク様式を比較的よく保ちつつ、その後300年にわたって繰り返された増改築によりゴシック建築も混じっている、とのことです。

 

 

これの次に見に行った伯爵宮殿の持ち主だったパトリック・ステュワートの息子が反乱を起こした際には、オークニー城(現存せず)が破壊された後に反乱軍が大聖堂に立てこもったもんで、危うく大聖堂まで破壊されるところだったそうな。司教の説得により攻撃は中止となりましたが。司教GJ。でも現代から見れば島と島民の歴史を物語る貴重で美しい遺産でも、その歴史の中で実際に殺し合っていた人たちにしてみたらそれどころじゃないわな。「貴重だから壊したらダメ」なんて意識を持ってられないよね。

 

聖オラフの像があるところなんか、やっぱりノルウェイ支配の時代を感じる。

 

これはストロムネスに像があったジョン・レイ博士のお墓。探検のさなかにテントの中でこんな風に寝ていたんだろう。ゆっくり快適に寝かせてあげてほしいような、彼が誇り高く生涯を捧げた冒険を続けさせてあげてほしいような。

 

外の墓地も興味深かったです。墓石によく「Beloved mother」とか何とか刻まれているのを見ますが、ここのお墓には銀行員だったとか商人だったとか職業も書かれ、人によっては亡くなった場所や死因も書かれていたの。

 

 

古い墓石は安定が悪いものも多いので、墓地の入り口に注意書きがありました。倒れてくるかもしれないから、そこら辺は自己責任で、と。また、子供だけでここに入って遊びまわったりするのも禁止。チビちゃんたちが興奮して走り回ってお墓にぶつかったりしたら新しい死者が出てしまう。

 

 

余談ですが、私自身、幼稚園時代は近所の墓地が遊び場でした。ひときわ大きく囲いのあったお墓をおうちに見立てておままごとをしたり、鬼ごっこや隠れんぼで遊んだり。今思うとよく大人たちが許していたものだ。おおらかな時代だったんだな。

 

 

一つの大きな墓石に一族の複数の人たちの説明が書かれているものもありました。あれは段々に増やしていくものなのか、あるいは何かの理由で大きな墓石を買った時の最新情報が載っているということなのだろうか。

 

これは後で訪れた司教館から撮った写真。

 

あの小さな窓を見るだけでも、どれほどこの大聖堂の塔が巨大かわかるよねえ。ちなみにこの大聖堂の塔は19世紀に建て増しされたものです。

 

大聖堂を見る一番のロケーションは、この司教館の塔の上だろうな…。素晴らしい。