ウイグル旅行記 29:エミン・ミナレット | 旅中毒

旅中毒

バックパックと少しのお金とパスポートがあればいい。行けば行くほど行きたい場所が増え、人生狂って後悔なし!

2019/8/16

 

宿がある昔ながらの一角に、小さな食堂があり、朝食を食べることができる。なんか好きなものを適当に皿に盛ってお金を払うシステムでした。

 

 

この日はまたツアーに入りました。と言っても、今日は私とベンだけ。エミン・ミナレット、カレーズ(運河)、交河故城を周ります。 

 

まずはトルファンから東に2キロのエミン・ミナレット。

 

ウイグルでは最大のイスラムのミナレットです。このモスクとミナレットは、伝統的なウイグルの建築様式とイスラムの建築様式が混じっているんですって。この一帯は西アジアと東アジアを結ぶ交通の要衝として長く栄え、様々な民族の文化が交じり合っていました。ウイグルのイスラム建築ではこういう融合がよく見られるし、逆に、現在の中国にしか、こういう融合した形式で建てられたミナレットはないらしい。

 

木と日干しレンガで作られている。

 

中には72段の螺旋階段があり、その階段には塔を補強する役割もあるそうな。しかしもう古くて危険だから塔に上るのは禁止されている。

 

 

よく見ると鉄を巻いて補強してあるんだよね。1778年に完成したものなので比較的新しいけど、それでも250年経ってるんだもんな。それにしても美しい…。

 

 

18世紀半ばまでトルファンはモンゴルの支配下にあり、この当時はジュンガル部族による苛烈な圧政にウイグル人は苦しめられていました。1720年にはウイグル人エミン・ホッジャをリーダーとする反乱も起きています。清は17世紀後半からジュンガルと戦いと続けており、エミン・ホッジャはジュンガルをウイグルから除くべく清に援助を求め、その代わりに清に臣従する。清はジュンガルを滅亡させ(諸事情があってジェノサイドにまでなったたって)、この地は清の支配下となり、エミン・ホッジャは清の勝利への貢献によりこの辺り一帯を治める王に任じられたそうな。

 

エミン・ホッジャは、清の乾隆帝への恩義とアラーへの信仰を示すため、そして自分の功績が後世に語り継がれるよう、ミナレットの建築を開始。しかし完成を待たずに他界したため、跡を継いで王になった息子スレイマン2世が完成させました。

 

こんなプレートも残っております。皇帝「乾隆」の名前が読み取れますね。(右端と左端)


もちろんモスクが併設されております。

 

ドームの内側。

 

中央には、この地域伝統の多柱式の礼拝堂があります。

 

暗くてよく見えないと思いますが、奥にミフラーブがある。

 

礼拝堂の左右に、小さなホールが連なっている。この写真を撮った場所と、この写真の奥にある場所がそれ。

 

礼拝堂の両脇にあるホールの連なり、こんな感じ。

 

今思うと、なぜイーワーンをもっと近くから撮らなかったのかな。

 

イーワーンとはモスクの入り口にある、上がアーチっぽくなってて三方が壁、一方が開いているホールのこと。それを囲む長方形の部分をピシュタクと言うらしい…。

 

ミナレットの前にはエミン・ホッジャの像もあるよ。撮ってないけど。新しいものじゃないのかしら?