早朝、駅からの帰り道。
久しぶりにドリカムの
“うれしはずかし朝帰り”を聴いた。

過去の出来事を思い出したというより、
あの頃の“気持ちの軽さ”が
身体に戻ってきた感じがしてね^ - ^


“朝帰り”って少しイケナイことのはずやのに、
それよりも
一緒に過ごした時間の余韻の方が甘くて
思い出してニヤけてしまうあの感じ。


音楽は記憶より先に感情を連れてくる。


それって、絵やタロットも同じで
見えないはずの気持ちを
形にできるから
人の中に残るんやと思う。



私は触れる仕事をしてるけど
目指しているのは
「上手な施術」よりも
触れられたあとに身体の奥に何かが残ること。


お客様からはよく
「手が魔法みたい」
「おばあちゃんの手ってこんなんやった」
「安心する」って言われる。

たぶん私がやっているのは
何かを良くしてあげることじゃなくて、
よく聞く言い回しかもやけど
その人が心の鎧を脱いでいられる場所。


人の悩みは
ほとんどが人間関係とか立場とか評価とか
“相手がいる世界”の中で生まれるもの。

そこから少し離れて
誰にも何も求められない状態になるって
とても静かで居心地がいいと思う^ - ^


子供の頃みたいに、
まだ何者でもなくて
背負うものも少なかった頃の軽さに近い感覚。
  

私は何かを教えたいわけでも
無理に前向きにしたいわけでもなくて、

ただ、
安心できる状態の中で
その人が本来持ってる感覚が戻ってくるのを
静かに見守っていたいと思ってる。



触れられたあとは
景色の見え方が少しだけ変わる。

そんな時間を作っています^ - ^















ルーティンが苦手。
ルーティンと言うよりは
同じことが続くと息が詰まる。

変化がないとダメで、
繰り返すだけの仕事はきっと向いていない。


ひとりの時間が私にとっては必要不可欠な聖域で
旦那さんが絶対に帰ってこない夜は
毎週楽しみだったりする。

誰にも気を遣わず
誰の様子も読まず
最高のしあわせ。ほんとうに楽しい。


他人に何かを渡す時
自分が満たされて
自然に溢れるようなら
人に渡してもいいと思っている。

いちいちちゃんと確認しないと
うっかり自分を削ってしまう癖が
私は長年あった。

平気で顔をちぎって渡している
みたいなことを
反射的にやってしまう。


去年からは意識して
これは自己犠牲になってないかな?
って、立ち止まって確認している。


私のベースに必要なのは、
自己犠牲にならないくらいの自己受容

自己受容って
本来はフラットなもののはずなのに、
私はそれにすら頑張ってしまう。

ほんとにこれでいいのか?
逃げてないか?
って、余計な確認をしてしまう。

それらも癖。


理解が早いせいか、過敏すぎるからか
場面に隠されてる触れなくてもいいものに触れて
早とちりも多い。



完全に私の想像の中の話やけど、
私の細かさは時に相手に
気を使わせてしまうことになってしまって
「あれ?なんだか噛み合わない??」って
距離を感じさせてしまうのかもしれない。


距離を感じて、
寂しくなって、
さらに距離ができる。

そんなループを
私はわりとよく知っている。

…演じてる私との距離感?

でも、
自己受容の時点でわたしが
ほんとのほんとうに『素』になったときに

実はものすごく冷たい人だったとしたら??
…それを考えると
怖くて最後まで受容しきれなくなる。


自分にがっかりすることを
わざわざするなんて

せっかく治りかけた傷をまた
引きちぎるような馬鹿なことだと思う。
いや、これまではそう思ってきたのだけど


一回それを知ってしまうのも
悪くはないとこの頃は以前よりも思っている。

ほんとの私はどこまで冷酷なんだろか。。。


友だちと話していて、
「子どもが可愛すぎて」
「犬が可愛すぎて」
なんて言うフレーズを友達の口から聞くと、

私の中には
同じものが一欠片もない気がして
少し不安になるけど

なけりゃないで仕方ねぇな。
ともどこかではしっかりと思っている。


気配りは実は
どこまでもできてしまう。
自己犠牲なんて俄然得意!
周りに気を遣わせないために
敢えて気を使えないフリだって
へっちゃらでできる。

そこまで思ってるのに
その一方で、
本気で演じることを完全にやめたら
自分が世界一冷徹になれる」気もしていて、
怖くて手を緩められない。



傍若無尽な人たちをたくさん見てきたから。
あぁいう風にはなりたくないという恐怖もある。


馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったもの。
その場の空気を
なんらかの数値にして過敏に読み取る自分が居る。

だからもうほんとに
自分はこういう人間(である方がいいだろう)
と頭で決めるところから入らない。
頭で道を決めない。頭で自分を作らない。

ああかな、
こうかな、
って思うことを、
ひとつずつ実証していく段階が必要。
賢かろうが馬鹿だろうがもどっちでもいい。


外の声じゃなくて、
自分の中の声から。



正直、怖い。
でも、それでいい気もしている。



人生なんて自分のものなのだから
自分がしあわせなら後は
他の人の課題でいいんだって!!

お節介しないっ!!


私の好きか嫌いかは昔から
正しいか間違いかではなくて
私が好きか嫌いかだった気もする。








最近、またひとつ気づいたことがある。

長年の私過ぎて 
しっかりと見えてなかった 
私自身の話。


私はわりと、過去の話をするタイプ。
それは「聞いてほしい」という欲求では無くて
もう既に自分の中で片付いている物が
誰かの新しい視点になりうると思ってたから。

相手のことを先回りして話してたのも、
悪気なんて一切なかった。
多分役に立つやろう
少なくとも気づきになるやろう
…そう思ってただけ。

でもそれは、
相手からしたらお節介で
余計なお世話であることもあったんだろな。
最近ようやく腑に落ちた。


私にとって自分の過去を語ることは、
自分の宝を差し出す感覚。


私の身を切って渡してるつもりやったから
無意識に
同じ深さを相手にも求めてたんやと思う。

ど演歌みたいな
濃くて深い繋がりの中に
自分の居場所を探してた。

距離ができることを
水臭いとか冷たく感じて
いくらでも自分の持ち物や身体を差し出してたのは
パーフェクトな相手軸で生きてたからだったんだろな

相手の勝手な期待に応えられないことで
ガッカリされたり、
こちらも勝手な想像で相手に期待したり、
相手の言動によっては
自分が滅びてしまうほど。



経て経て今は、
もっとポップな距離感の中で
居心地の良さとか相手の良さを
素直にあっさりと感じられるようになってきた。

たぶんそれは、
誰かとの関係が変わったというよりかは
自分自身が自分の居場所になったからで 

深さを証明し合わなくても
ちゃんとそこに在れる。

そんな感覚が
今は静かに味わえているということ。


激しさや濃さや深さへのこだわりよりも
穏やかに安心していられるようになった^ - ^