ルーティンが苦手。
ルーティンと言うよりは
同じことが続くと息が詰まる。

変化がないとダメで、
繰り返すだけの仕事はきっと向いていない。


ひとりの時間が私にとっては必要不可欠な聖域で
旦那さんが絶対に帰ってこない夜は
毎週楽しみだったりする。

誰にも気を遣わず
誰の様子も読まず
最高のしあわせ。ほんとうに楽しい。


他人に何かを渡す時
自分が満たされて
自然に溢れるようなら
人に渡してもいいと思っている。

いちいちちゃんと確認しないと
うっかり自分を削ってしまう癖が
私は長年あった。

平気で顔をちぎって渡している
みたいなことを
反射的にやってしまう。


去年からは意識して
これは自己犠牲になってないかな?
って、立ち止まって確認している。


私のベースに必要なのは、
自己犠牲にならないくらいの自己受容

自己受容って
本来はフラットなもののはずなのに、
私はそれにすら頑張ってしまう。

ほんとにこれでいいのか?
逃げてないか?
って、余計な確認をしてしまう。

それらも癖。


理解が早いせいか、過敏すぎるからか
場面に隠されてる触れなくてもいいものに触れて
早とちりも多い。



完全に私の想像の中の話やけど、
私の細かさは時に相手に
気を使わせてしまうことになってしまって
「あれ?なんだか噛み合わない??」って
距離を感じさせてしまうのかもしれない。


距離を感じて、
寂しくなって、
さらに距離ができる。

そんなループを
私はわりとよく知っている。

…演じてる私との距離感?

でも、
自己受容の時点でわたしが
ほんとのほんとうに『素』になったときに

実はものすごく冷たい人だったとしたら??
…それを考えると
怖くて最後まで受容しきれなくなる。


自分にがっかりすることを
わざわざするなんて

せっかく治りかけた傷をまた
引きちぎるような馬鹿なことだと思う。
いや、これまではそう思ってきたのだけど


一回それを知ってしまうのも
悪くはないとこの頃は以前よりも思っている。

ほんとの私はどこまで冷酷なんだろか。。。


友だちと話していて、
「子どもが可愛すぎて」
「犬が可愛すぎて」
なんて言うフレーズを友達の口から聞くと、

私の中には
同じものが一欠片もない気がして
少し不安になるけど

なけりゃないで仕方ねぇな。
ともどこかではしっかりと思っている。


気配りは実は
どこまでもできてしまう。
自己犠牲なんて俄然得意!
周りに気を遣わせないために
敢えて気を使えないフリだって
へっちゃらでできる。

そこまで思ってるのに
その一方で、
本気で演じることを完全にやめたら
自分が世界一冷徹になれる」気もしていて、
怖くて手を緩められない。



傍若無尽な人たちをたくさん見てきたから。
あぁいう風にはなりたくないという恐怖もある。


馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったもの。
その場の空気を
なんらかの数値にして過敏に読み取る自分が居る。

だからもうほんとに
自分はこういう人間(である方がいいだろう)
と頭で決めるところから入らない。
頭で道を決めない。頭で自分を作らない。

ああかな、
こうかな、
って思うことを、
ひとつずつ実証していく段階が必要。
賢かろうが馬鹿だろうがもどっちでもいい。


外の声じゃなくて、
自分の中の声から。



正直、怖い。
でも、それでいい気もしている。



人生なんて自分のものなのだから
自分がしあわせなら後は
他の人の課題でいいんだって!!

お節介しないっ!!


私の好きか嫌いかは昔から
正しいか間違いかではなくて
私が好きか嫌いかだった気もする。








最近、またひとつ気づいたことがある。

長年の私過ぎて 
しっかりと見えてなかった 
私自身の話。


私はわりと、過去の話をするタイプ。
それは「聞いてほしい」という欲求では無くて
もう既に自分の中で片付いている物が
誰かの新しい視点になりうると思ってたから。

相手のことを先回りして話してたのも、
悪気なんて一切なかった。
多分役に立つやろう
少なくとも気づきになるやろう
…そう思ってただけ。

でもそれは、
相手からしたらお節介で
余計なお世話であることもあったんだろな。
最近ようやく腑に落ちた。


私にとって自分の過去を語ることは、
自分の宝を差し出す感覚。


私の身を切って渡してるつもりやったから
無意識に
同じ深さを相手にも求めてたんやと思う。

ど演歌みたいな
濃くて深い繋がりの中に
自分の居場所を探してた。

距離ができることを
水臭いとか冷たく感じて
いくらでも自分の持ち物や身体を差し出してたのは
パーフェクトな相手軸で生きてたからだったんだろな

相手の勝手な期待に応えられないことで
ガッカリされたり、
こちらも勝手な想像で相手に期待したり、
相手の言動によっては
自分が滅びてしまうほど。



経て経て今は、
もっとポップな距離感の中で
居心地の良さとか相手の良さを
素直にあっさりと感じられるようになってきた。

たぶんそれは、
誰かとの関係が変わったというよりかは
自分自身が自分の居場所になったからで 

深さを証明し合わなくても
ちゃんとそこに在れる。

そんな感覚が
今は静かに味わえているということ。


激しさや濃さや深さへのこだわりよりも
穏やかに安心していられるようになった^ - ^









最近ずっと


「あたしゃどうして

こんなチャレンジを

自ら進んでやってるんだろか???💫」

って、、すごい揺さぶられてる


月1のスナックたえが

…正直、ちょっと辛い。


楽しい場面だけが体を疼かせて

怖かったけど、

「よし!やってみるか!」ってやり始めた。

しかしながら、1人でやるには

準備も段取りも告知も苦手なことが多すぎる💦



だれかのせいにできないって大変💦💦

でも、ふと

これがあのサウナに入って調うとか言う感覚!?

って思った❣️




辛いけど、やるしかない

ってなんとかやってるとまた

ワクワクも湧いてくる✨



サウナで「調う」って

馬鹿暑くてしんどいのに

乗り越えて緩んでスッキリ!みたいな。


ちょっと簡単に言い過ぎたけど

でも、ハマる人はクセになって

病みつきになるらしいやん🤭??


なんか今、

この挑戦で初めて

それを体感してるようなのです。




さらにさらに!

運動部の人って、

色んな局面で

この緊張と緩和を

体で何回もやってきてるんちゃうかな?!


逃げ場が無い自分のターンを

全集中イマココジブンで抜ける。


体が辛くてでも乗り越えて、、

?!登山とかも?!?!


ランナーズハイとか?!


私のは、スナックーずハイ👍




私自身、

極限まで追い込む運動をしたことが無いから

こんな感覚が身についてなかったってことか。




しんどい。


逃げたい。


…でも、ちょっと楽しい🙃



てっきり私

とんだ変態なのかと思ってた😆

否定はできん!







コンフォートゾーンと言う

いわゆる一つの

安心安全な平坦な日々を抜けていくことって


一気に飛び越えるもんやと思ってたけど、、、



歯を抜く時とか

大根を抜く時みたいに

揺らして戻って

また揺らして抜けてくもんね笑

羽化する時だって

私たち人間が産まれるときもそうか。



そうやって私たちは日々成長してるってこと。




今回のスナックたえも、

まさにそれ。


『やる』と決めること自体はただの始まり

そこから積み重ねるこの揺らぎが

日々の揺らぎとは

全く別のものを引っこ抜いてるんやから

新しい経験になる^ - ^


新しいステージを経験することは

新しい自分になることもある。




二十四節気【小寒】で蒸籠蒸し。

調べて、悩んで、頼って、助けられて。


不慣れな準備と苦手な告知。


自立自立とうるさく論じてる私が

1番の依存体質だったこと

またまた知ってしまうほど(T_T)


誰のせいにもできないところの自立に

50手前にしてやっとまた気付かされるのだよ。


でも、自分で「やってみよう」って決めたこと

自分の責任ということを

どこか楽しんでる自分も居る。

辞めるのも自由🗽



そう思うと、

ここの初期設定が、以前は全く違ってて

他人に言われたところからの

「やってみよう」やったから

なんかしっくりわくわくしなかったり


…もちろん

その時も、「やる」と決めたのは自分



でも、そう言えば

親に押し付けられる「やる!」と

親の目を掻い潜ってでも「やる!」ってのは

湧き上がるパワーと

迸るエナジーが違うよね🔥


「やるぞ!」よりも

星野監督の「勝ちたいんや!」の方🤭


先が見えるかのように先回りされては

いくら善意といえどもやる気が折れる😅

アドバイスしたいのは相手の自由。



「自分で決める」

「自分で責任を取る」

が、ただの怖いことやと思って

自分にはできないと決めつけて

無意識に自然に避けてきたんやろうけど

自分で決めるだけの確かなときめきと

なんてったって自分の責任には自由がある🗽



なーーーんだ!

悪いことばっかじゃないやん!

統合!統合!😋



私の中では

『抜け方』のイメージが変わった大発見


そんな気づきでした🤗