松岡美術館で開催中の「わたしを呼ぶ《アート》古代エジプトからシャガールまで」展でこれは、と思う作品、《枯枝棲「欠落の記憶」》の主観レビューをお届けします。
画面中央には、背を向けて走る少年。
周囲には赤く燃えるような草地、枝だけになった木々、奥には暗く沈んだ空間が広がっています。
「枯枝棲」とは、直訳すれば「枯れた枝に棲むこと」。
生命力を失った場所、あるいは生命の痕跡だけが残る場所を示唆します。
タイトルにある、「欠落の記憶」とは、思い出そうとしても思い出せない、失われたはずなのに、感情だけ残っている状態です。
つまり本作は、思い出せない記憶に支配されている感覚を視覚化していると読めます。
そして、少年のいる場所は赤いですが、鮮やか過ぎ、記憶が風化しかけているように思えます。
つまり、「生々しいが、すでに過去化している記憶」のように解釈でき、少年のいる場所は「生きている場所」ではあるが、すでに風化のプロセスに入っていると思われます。
しかし、逃げる先は白黒で、完全に風化しています。
そこは、記憶の”終着点”であり、忘却の向こう側、死、または無感覚の世界と読めます。
今いる場所は苦しく、痛みを伴うが、まだ感情や記憶は残っている。
進んだ先では、痛みは消えるかもしれないが、同時に「自分」も消える。
つまり、この少年は、苦しみを抱えて生きるか、何も感じずに消えるか、という二択の狭間にいます。
どちらも「救い」として描かれていないのです。
つまり本作は、「記憶が風化していく現在」と、「完全に失われた未来」の間で、どちらにも希望を見出せない人間の精神風景を描いている、と言えるのではないでしょうか。
飯田順雅(1975)《枯枝棲「欠落の記憶」》








