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パラレル

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三菱一号館美術館で開催中の「トワイライト、新版画ー小林清親から川瀬巴水まで」展でこれは、と思う作品、《武蔵百景之内 両国花火》の主観レビューをお届けします。

画面手前には、浴衣姿の女性が背を向けて座る姿が大きく描かれています。

顔を見せないことで、観る側が「その女性の視点」に入り込み、花火を″体験する″感覚が生まれる、という没入的な効果を生んでいます。

 

普通の浮世絵では、花火が画面中心に来ますが、本作では、遠景に小さく描かれ、川面の反射や空気感が強調されています。

 

水面は水平線が目立ち、静けさの中の微妙な変化が見られます。

これは単なる描写以上に、心理的な静けさ・余韻・感情の広がりを感じさせます。

ここから、女性の顔は見えませんが、穏やかな女性であると連想されます。

 

画面の赤は、視線を引き締めるアクセントとして機能しています。

特に清親は色数を抑える傾向があるので、少量の赤が画面全体の緊張感をコントロールしていると言えます。

 

さらに、花火を一瞬の外界の出来事、水面を持続する内面の時間と捉えれば、瞬間と持続の対比であるとも言えます。

小林清親(1884)《武蔵百景之内 両国花火》スミソニアン国立アジア美術館

 

 

三菱一号館美術館で開催中の「トワイライト、新版画ー小林清親から川瀬巴水まで」展でこれは、と思う作品、《武蔵百景之内 江戸ばしより日本橋の景》の主観レビューをお届けします。

タイトル通り、江戸橋付近から日本橋方面を見た都市景観です。

川には舟が行き交い、当時の物流・商業の中心地の活気が描かれています。

 

本作の最大の特徴は、極端な遠近のズレです。

手前の男性に迫っているので、大男のように見え、遠景では舟に乗る人が小さく描かれています。

男は富士山より大きいのです。

 

しかし、その顔にやる気は感じられず、アンマッチも面白い。

構図としては、巨大で主役的ですが、顔が見切れ、表情が淡白、動きも静かです。

つまり、視覚的には主役なのに、心理的には主役感がない。

このズレがユーモラスでもあり、どこか脱力的です。

さらに言えば、これは明治の都市に生きる「無名の労働者」、英雄ではない日常の人物を象徴しているとも読めます。

 

そして、建物と地平線の赤が寒色中心の画面を引き締めるアクセントになっています。

加えて、新しい東京を表す近代的なレンガ建築と、時間の移ろいを表す夕焼けが同じ色で結ばれることで、「時代の変化」と「一日の終わり」が重ねられるという読みも可能です。

 

さらに、本作は「巨大に見えるが無名である個人」と「小さく見えるが歴史的中心(日本橋)」という対比とも読めます。

小林清親(1884)《武蔵百景之内江戸ばしより日本橋の景》スミソニアン国立アジア美術館

 

 

三菱一号館美術館で開催中の「トワイライト、新版画ー小林清親から川瀬巴水まで」展でこれは、と思う作品、《明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋》の主観レビューをお届けします。

画面の大部分を占めるのは、空を斜めに走る赤い炎と煙です。

単なる風景ではなく、「災害のエネルギー」そのものが主役になっています。

 

風に煽られた火は大きく方向を変えており、炎の強さが連想されます。

炎には、赤の他、黒も混ざっており、何もかも焼き尽くしていると思われ、その破壊力の凄まじさが分かります。

 

一方、川は水平線が目立ち、穏やかな印象を受けます。

この対比によって、火の異常性、破壊の激しさがより強調される構造になっています。

 

また、川は単なる対比だけでなく、火から逃れる境界、一時的な安全の象徴とも読めます。

ただし画面では、川があっても火の勢いが圧倒的なので、「逃げてもなお迫る災害」という不安も感じさせます。

小林清親(1881) 《明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋》スミソニアン国立アジア美術館