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パラレル

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アーティゾン美術館で開催中の「モネ没後100年 クロード・モネー風景への問いかけ」展へ行って来ました。

印象派の巨匠クロード・モネは、自然光の移ろいに魅せられ、その美しさをカンヴァスにとどめようと生涯をかけて探究しました。

 

オルセー美術館が、モネの没後100年という国際的な記念の年の幕開けを飾る展覧会、と位置づける本展では、モネの創作を語る上で重要な場所と時代から、その画業の発展を丹念にたどっています。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

セクション1 モティーフに最も近い場所でーノルマンディとフォンテーヌブローで制作した1860年代のモネ

セクション2 写真室1:モティーフと効果

セクション3 《かささぎ》とその周辺ー雪の色

セクション4 風景画と近代生活ー「飾られた自然と、都市の情景」(テオドール・デュレ)

セクション5 四季の循環と動きのある風景ー「ここが私のアトリエだ」(クロード・モネ)

セクション6 1880年代の風景探索ー「表現された感覚の驚くべき多様性と大胆な新しさ」(オクターヴ・ミルボー)

セクション7 ジャポニスム

セクション8 連作ー反復ー屋内風景

セクション9 写真室2:効果と反射ー写真による風景、夢見た風景

セクション10 写真室3:ジヴェルニーの庭のクロード・モネーエティエンヌ・クレマンテルのオートクローム

セクション11 池の中の世界ー睡蓮

 

展覧会は、モネが若き日に南部フランスの大地を描いた初期作品から始まります。

自然の空間を観察する姿勢が鮮やかに表れ、《エルムの眺め》や《サン=シエモン農場前の道》など、細やかな光の捉え方に、後の印象派的な感性が芽生える瞬間が見て取れます。

 

セクション3では、モネの《かささぎ》を中心に雪景色を描いた作品が並んでいます。

モネはここで「雪は単なる白ではない」ことを証明しました。

青、紫、ピンクが混じり合う影の描写は、当時のアカデミズムが描く「黒い影」を否定し、網膜が捉える真実の色彩を提示しています。

クロード・モネ(1868-69)《かささぎ》オルセー美術館

 

セクション4では、都市や生活の風景と自然が交差する作品が並びます。

ここで紹介される《サン=ラザール駅》からは、モネが風景を「物体」としてではなく、光や空気という「媒体」を通して捉え始めた転換点を感じさせます。

また、《アルジャントゥイユのレガッタ》など、近代レジャーの風景は色彩豊かに表現され、モネの視線が時代の空気をも捉えていることに気付かされます。

クロード・モネ(1877)《サン=ラザール駅》オルセー美術館

 

モネは、1878年から81年にかけて、小村・ヴェエトゥイユに移り住みます。

セクション5では、ヴェエトゥイユで制作された作品が紹介されています。

 

そこでは、セーヌ川のほとりや庭の端にイーゼルを据え、季節の移り変わりの中で自然を観察しました。

産業化の波は押し寄せていませんが、特色の少ない平凡な地であることが、モネの自然と絵画へのアプローチにおける、気象現象の重要性を強調します。

同じ位置から繰り返し描かれる作品制作は、1880年代の最初の風景連作の先駆けであり、結氷の漂うキラキラと輝くセーヌ川の水面は、水辺と睡蓮の風景を予告しています。

クロード・モネ(1879-80)《ヴェエトゥイユのセーヌ川》オルセー美術館

 

セクション6では、モネが1880年代に各地を旅しながら風景画の可能性を探った時期に焦点を当てています。

彼は家族から離れ、フランス国内・国外の異なる地で制作を行い、その地形や光、気候の違いを取り入れました。

ベル=イル島の海や岩場を描いた作品などは、自然の力強いリズムとモネの観察眼が交差する場として際立ちます。

浮世絵に学んだ大胆な構図が、モネの風景をより平面的かつ装飾的なステージへと押し上げていく過程が見て取れます。

クロード・モネ(1882)《税関吏の小屋、午後の効果》ドゥアーヌ美術館(オルセー美術館からの寄託)

 

本展のユニークな点が、絵画だけでなく当時の「写真」や「浮世絵」と対置させている点です。

モネは20代半ばから浮世絵を収集し、自然や風景の見方、空間の切り取り方に新たな視点を得ました。

特に浮世絵の大胆な構図や色使い、地平線や水平線の配置は、後のモネの作品に顕著な影響を与えています。

セクション7は、ジャポニスムの影響を体感できる章です。

 

1890年代になると、モネはひとつの主題を複数の条件・時間帯で描き分ける「連作」という手法を確立します。

大地の持つ自然の力の描写は減り、光や色合い、大気といった無形で触知しがたいもの、あるいは、時間の経過や移ろう光のように捉えがたいものが表現されるようになります。

作品は、正確な現実の表象というより、幻影や夢見た風景にますます近づいていきます。

ここでは、印象派の核心とも言える「視覚の変奏」が展開され、モネが光の捉え方を絵画の主題そのものにまで高めた過程が分かります。

クロード・モネ(1893)《ルーアン大聖堂 扉口 朝の太陽》オルセー美術館

クロード・モネ(1893)《ルーアン大聖堂 扉口とサン=ロマン塔 陽光》オルセー美術館

 

1883年、モネは最終的にジヴェルニーに腰を落ち着けます。

1893年には、水生植物のある「水の庭」を設ける目的で土地を購入し、庭づくりを進めていく。

庭の池を主題とした作品群は、単なる風景画から内面の世界へと向かい、光と反射が混じり合う奥行きのある画面を作ります。

 

1911年に妻アリス、次いで1914年には息子ジャンの死去を経験した後、1914年に活動を再開します。

モネは《睡蓮》シリーズに関連した作品制作のためのアトリエを造設し、制作。

モネの死去、1927年にオランジュリー美術館で展示されるようになります。

セクション11では、モネの晩年の創造を象徴する《睡蓮》シリーズを中心に展開されます。

クロード・モネ(1903)《睡蓮》石橋財団アーティゾン美術館

クロード・モネ(1920-22)《しだれ柳》オルセー美術館

 

本展では、モネの作品を「癒しの風景」として眺めるだけでなく、彼がキャンバスの前で何を疑い、何を捉えようと格闘していたのかを追体験させてくれます。

「風景はそれ自体では存在しない。刻々と変化する大気と光によって、風景は作り出される」。

モネがたどり着いたその境地を、会場で体感してみませんか。

 

 

 

会期:2026年2月7日(土)〜5月24日(日)

会場:アーティゾン美術館 6・5階展示室

   〒104-0031 東京都中央区京橋1-7-2

開館時間:10:00〜18:00(3月20日を除く金曜日、5月2日(土)、5月9日(土)、5月16日(土)、5月23日(土)は20:00まで)

   ※入館は閉館の30分前まで

休館日:2月16日(月)、3月16日(月)、4月13日(月)、5月11日(月)

主催:公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館、オルセー美術館、日本経済新聞社、NHK

後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ

協力:日本航空

お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

 

 

 

神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「福田尚代 あわいのほとり」展でこれは、と思う作品、福田尚代(2021)《本の粒子》作家蔵 の主観レビューをお届けします。

無数の小さな白い粒のようなものが散らばっています。

よく見ると、それぞれは完全な球ではなく、細長い断片や小さな塊になっています。

これらは実は、本を細かく裁断してできた紙片です。

つまり、この粒はすべて「本」から生まれた断片です。

 

つまり、言葉と物質の境界が崩れ、言葉が物質のように扱われる状態になっています。

ここから、言葉は世界を構成する粒子なのではないかという発想が生まれます。

 

言葉は神の言葉なのではないでしょうか。

聖書には、神は言葉によって世界を創造した、「光あれ」と言って光が生まれた、という思想があります。

これは、言葉=創造の力という考え方です。

 

本作を見ると、粒子(言葉)が散らばり、また何かを作ろうとしているようにも見えるため、神の言葉が世界を再び組み立てようとしている、という読みも成立します。

 

また、人間も言葉の集積物なのです。

人間は、名前・記憶・物語・文化・言語によって自己を作っています。

つまり人間は、肉体だけでなく「言葉の構造」でできている存在とも言えます。

本作の粒子を、言葉の粒と見るなら、それらが集まることで人間や世界を作ることができるのです。

「世界や人間は言葉の粒子から作られている」という哲学的な読み方ができます。

 

神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「福田尚代 あわいのほとり」展でこれは、と思う作品、福田尚代(2003-2025)《翼あるもの/岬》作家蔵 の主観レビューをお届けします。

文庫本を折り込み、表紙を広げ翼のようにした作品。

まさに羽ばたく直前の鳥の姿に見えます。

ここで本は「読む対象」から、飛ぶもの・移動するもの・旅立つものへと変わっています。

つまり、言葉が固定されたものではなく、どこかへ向かう存在として表現されています。

 

遠くから見ると、本作では文字は読める文章ではなく、細い線や羽の模様に変わります。

今まさに文字が分解され、他の何かに変わるため、飛んでいこうとしているのです。

 

それは全く違った意味を持つ言葉かもしれないし、意味を持たないかもしれない。

つまり、ここでは言葉が意味を持つ前、あるいは意味から解放された状態が表現されているとも読めます。

私たちは以前読んだ言葉とどこかで再会しているかもしれません。