サントリー美術館で開催中の「徳川美術館展 尾張徳川家の至宝」へ行って来ました。
大名家は家の格や歴史にふさわしい道具を所持していましたが、尾張徳川家でも家康の遺品を中心に、歴代当主や夫人たちが使用・所持・蒐集した道具や、婚礼の際の持参品、歴代将軍からの拝領品、諸大名や公家からの贈答品、家臣や豪商からの献上品など、数多くの道具が蓄積されてきました。
それらは道具帳や蔵帳と呼ばれる台帳に記録され、美術品のみならず備品の類までもが数多くともない、今に伝えられてきました。
しかし、これらのコレクションを伝存させることは決して容易なことではありませんでした。
尾張徳川家十九代義親は引き継がれてきた道具の重要性に鑑み、それをきちんと後世に伝えようと、財団を設立して伝来の道具類を寄付するという英断を下しました。
そして1935年に徳川美術館が開館したのです。
本展は、徳川美術館が有する家康の遺品「駿府御分物」をはじめ、歴代当主や夫人たちの遺愛品などの中から厳選された名品を紹介するものです。
展覧会の構成は以下の通りです。
Ⅰ 尚武 もののふの備え
Ⅱ 清雅ー茶・能・香ー
Ⅲ 求美
特別公開 国宝 初音の調度
特別公開 国宝 源氏物語絵巻
尾張家は徳川家康の九男・義直を初代とする御三家筆頭の大名家です。
1600年9月、かの天下分け目の大戦・関ヶ原合戦から約2ヶ月後、義直は大坂城で誕生しました。
はじめ甲斐国を与えられましたが、兄で家康四男の松平忠良がこの世を去ると、その跡を継ぎ清須城主となりました。
また、尾張家代々の居城となる名古屋城を完成させ、尾張国一国・美濃国・三河国の一部・信濃国の木曽山などの領国を有しました。
大名は武力で支配権を確立した武士であり、軍事戦闘集団の長でした。
泰平の世にあっても、大名はあくまでも武士として常に備えを怠らず、江戸時代を通じて刀剣や鉄砲などの武器や、甲冑などの武具類を取り揃えてきました。
会場に入ると、徳川家康を神格化した姿を描いた礼拝用の肖像画である、伝 狩野探幽筆《徳川家康画像(東照大権現像)》(江戸時代 17世紀)が目に入ります。
家康は歿後、幕府の宗教政策を主導した天台僧・天海の指揮によって「東照大権現」として祀られました。
数ある「東照大権現像」の中でも尾張家伝来の画像として伝来しているのはこの一点のみです。
《脇指 無銘貞宗 名物物吉貞宗》(南北朝時代 14世紀)は、相模国の名工・貞宗による脇指です。
尾張家2代光友は祖父・家康所縁の本刀を並々ならず重視し、「物吉」と命名しました。
光友歿後には家宝の筆頭とされ、新当主が本刀を受け継ぐ儀式が行われるようになりました。
以後、物吉を家宝の筆頭とすることは江戸時代末まで続きました。
政治を担い文化を庇護する立場にあった大名には、礼法や教養が求められました。
特に、茶・能・香は、儀礼や外交といった公的な場で行われたため、必ず習得すべき芸道でありました。
室町時代に成立した茶の湯は、儀礼や饗応の場に組み込まれました。
茶の湯道具は家の格を表したため、大名家では競って華々しい伝統を持つ名物茶器を蒐集しました。
宮本武蔵が剣豪として有名であると同時に、水墨画に優れた画技を発揮した画人でもありました。
《盧葉達磨図》(江戸時代 17世紀)は、達磨が教化のためにインドから中国に移った際、梁の武帝から高僧として歓迎されるも、問答を通して武帝が教化に値する時機でないことを見破り、そのもとを去るにあたり、蘆の葉に乗って揚子江を北上したという伝説に基づいています。
《唐物茶壺 銘 金花 大名物》(南宋-元時代 13-14世紀)は、古来名高い名物の茶壺です。
『信長公記』には、1576年の安土城天守完成時に祝賀の品として信長に送られ、信長が喜んだことが記されています。
胴が大きく張った堂々とした姿で、白い化粧土に上掛けされた灰釉がまだらに黄金色を呈し、美しい輝きを放っています。
《唐物茄子茶入 銘 茜屋 大名物》(南宋-元時代 13-14世紀)は、伝存する茄子茶入の中でも大振りで、銘は堺に住したとされる茶人・茜屋吉松が所持していたことに由来します。
16世紀半ば頃の名物茶の湯道具の情報を留めた記録には、武野紹鷗の説として「茄子茶入の決まりは、口が美しく作られ、肩がないのを上質とする。裾(胴部分)が垂直となっているのを上質とする」とあり、本品が古くから名物として尊重された理由がうかがえます。
続いては茶碗です。
井戸茶碗は形姿から大井戸・青井戸・井戸脇などに分類され、枇杷色で淡々とした大振りな井戸茶碗は「大井戸」と呼ばれ、特に珍重されました。
《井戸茶碗 銘 大高麗 大名物》(朝鮮王朝時代 16世紀)は名の通り大振りな姿で、高台脇と高台内部を荒く削り、全体に掛けられた釉薬を部分的に厚く留めることで、釉の縮れである梅花皮を生じさせています。
桃山時代から江戸時代初期にかけて流行した香木の命銘は、天皇を中心とする公家文化において盛んになり、次第に大名の間でも行われるようになりました。
《香木 伽羅 銘 大伽羅》は、和歌に秀で、茶の湯を好んだことでも知られる後西天皇により「大伽羅」と勅命が附されています。
《香木 羅国 仮銘 初春》は、香道志野流19世蜂谷宗由により、「初春」と仮銘が付けられています。
《香木 真那賀 銘 一声》は、尾張家2代光友により「一声」と命銘されています。
《菊折枝蒔絵香箪笥》(江戸時代 17世紀)は、天板に釣手が付き、横開き戸のついた携帯式の箪笥で、内には3段の引き出しが設けられています。
香木や香道具を収めるのに用いられました。
「菊折枝蒔絵調度」の他の作品と比べて古く、地色や金色、意匠の密度が異なり、菊の折枝も写実的で量感にあふれています。
儀礼や遊興など様々な場で詠むことが求められる詩歌や歴史・道義なども習得できる文学は、為政者にとって必須の教養でありました。
書では、歴代天皇の宸翰、著名な歌人や文人、あるいは歴代藩主の筆跡などが、儀礼の空間に飾られ、贈答品としても用いられました。
絵画も同じく、古今東西の名画が鑑賞のみならず儀礼空間の荘厳や贈答に用いられました。
一方で、典籍や書画は、大名やその子女が日々の徒然を慰めるための娯楽として「奥」というプライベートな空間でも鑑賞され、あるいは自ら筆をとる際の手本となる側面もありました。
中には専門の職人並みの優れた技量を示す大名も現れました。
《松橘蒔絵貝桶・合貝》(江戸時代 1780年)は、見飽きることのない優品です。
貝桶は、貝合背の遊びに使われる合貝を収める一対の八角形の桶です。
合貝は二片一対であることから貞節や夫婦和合の象徴とされ、貝桶は婚礼調度の筆頭道具とされました。
蛤の貝殻が用いられ、内側には『源氏物語』や花鳥を題材とした極彩色の細密画が描かれています。
《純金葵紋蜀江文皿》(江戸時代 1639年)、《純金葵紋牡丹唐草文盃》(江戸時代 1639年)は、1639年に3代将軍家光の娘・千代姫が尾張家2代光友に嫁いだ際の婚礼調度と推測される純金の調度です。
皿は金無垢で、高台は付け高台とし、接合のための鋲6本が見込みに確認できます。
盃は木胎を芯に金の薄板を貼り合わせた構造です。
皿は総重量545g、盃は146gで、木胎など金以外の材質を差し引いた金の重量は93gです。
そしていよいよ会場の最後に、《源氏物語絵巻 柏木(三)》(平安時代 12世紀)が展示されています。
女三の宮と亡き柏木の不義の子・薫は、健やかに育ち、五十日の祝いを迎えました。
祝いの膳が用意され、家柄・器量ともに優れた乳母や女房たちが華やかな装いで居並んでいます。
その盛大な儀式の席で光源氏は我が子ならぬ薫を抱き上げます。
柏木に似た気品を幼子の面差しに見出し、世間に明かすことのできない形見を残してこの世を去ってしまった柏木を不憫に思います。
若き日に藤壺中宮と犯した過ちの因縁におののき、女三の宮の心痛、薫のこれからの運命など、心によぎる苦く複雑な思いを和歌にして女三の宮に詠みかけます。
次は《初音蒔絵旅眉作箱》(江戸時代 1639年)です。
本品は、旅先で眉や額の化粧をするための、必要最小限の化粧道具を効率よく収納した携帯用の箱です。
懸子が附属し、底を二重にして、下段に文房具を入れた引き出しを設けています。
鏡建は、細い材で作られた枠が巧みに組み合わされ、畳んで箱の中に収納することができます。
蒔絵だけでなく、鏡・硯も当時、最高の地位を誇った職人の製作とみられます。
本展では、家康の遺品「駿府御分物」をはじめ、歴代当主や夫人たちの遺愛品から、刀剣、茶道具、香道具、能装束などにより、尾張徳川家の歴史と華やかで格調高い大名文化を紹介しています。
尾張徳川家の歴史と豪華絢爛な大名文化に触れてみませんか。
会期:2024年7月3日(水)-9月1日(日)
会場:サントリー美術館
〒107-8643 東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン[六本木] ガレリア3階
休館日:火曜日(8月27日は18時まで開館)
開館時間:10時〜18時
※金曜および8月10日(土)、11日(日・祝)、31日(土)は20時まで開館
※いずれも入館は閉館の30分前まで
主催:サントリー美術館、徳川美術館、読売新聞社
協賛:三井不動産、竹中工務店、サントリーホールディングス