茶の湯の美学ー利休・織部・遠州の茶道具ー | パラレル

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三井記念美術館で開催中の「茶の湯の美学ー利休・織部・遠州の茶道具ー」展へ行って来ました。


三井家から寄贈された美術品の中で茶道具は、江戸時代以来長年にわたり収集され蓄積したもので、数と質の高さにおいては他に例をみないものです。

茶の湯の歴史を研究する上でも貴重な作品群となっています。

 

本展は、その中より桃山時代から江戸時代初期、茶の湯をリードした千利休・古田織部・小堀遠州の茶道具を選び、それぞれの美意識を探るものです。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

展示室1(利休・織部・遠州の美意識)

展示室2(国宝の名碗)

展示室3(如庵 織田有楽の茶室)

展示室4 千利休の美意識=「わび・さびの美」

 ○わび茶の師=村田珠光・武野紹鷗・北向道陳

 ○利休の消息とゆかりの茶道具

 ○聚楽第図と千利休画像

 ○利休作・所持・在判の茶道具

 ○利休が好んだ茶道具

展示室5

 ○利休写

 古田織部の美意識=「破格の美」

 ○織部筆・作の茶道具

 ○歪(ひずみ・ゆがみ)・沓形(くつがた)

 ○破格の形の波及

 ○志野・織部

展示室6 数棗と数香合より

 ○利休形茶器 十二

 ○利休好と織部好の蒔絵の香合

展示室7 小堀遠州の美意識=「綺麗さびの美」

 ○墨跡・絵賛・歌切・消息

 ○遠州の和歌色紙

 ○中興名物の茶陶

 ○遠州が関わった茶陶

 ○遠州作・所持の茶道具

 

利休は、村田珠光・北向道陳・武野紹鷗を茶の湯の師としてその流れを受け継ぎ、「わび茶」の大成者とされています。

それゆえに利休の美意識を貫くのは当然「わび」の美ということになります。

 

本展での利休ゆかりの茶道具は、全体に黒っぽくくすんだ感じの茶道具が多いという印象です。

端正であるが、粗末な感じがします。

しかし、どこか厳しさと深い精神性が漂い、粗末さも二つとない選りすぐられた粗末さです。

 

利休所持の与次郎釜とされるのが、与次郎《姥口霰釜》(桃山時代 北三井家旧蔵)です。

内側に落ち込むような口造りを、老婆の歯の抜けた口に見立てて「姥口」と呼んでいます。

肩から胴にかけて「霰」と呼ばれる細かい粒々の突起が鋳出されています。

千宗旦の箱書があり、利休所持として伝わっています。

利休好みの釜を制作した辻与次郎の作で、穏やかな丸みと端正な霰が美しい。

 

長次郎《黒楽茶碗 銘俊寛》(桃山時代・16世紀 室町三井家旧蔵)は面白い命銘のされ方です。

長次郎の茶碗の中でも最も作意が表出した半筒茶碗です。

添状では、千利休が薩摩の門人の依頼で、長次郎の茶碗を3碗送ったところ、この茶碗を残して2碗は送り返されてきたので、『平家物語』にある鬼界ヶ島に一人残された俊寛僧都の故事にちなんで命銘されたことが記されています。

箱蓋の貼紙「俊寛」は利休筆とされています。

 

そして、利休の師とされている村田珠光の筆とされる、《漁村夕照図》です。

瀟湘八景のうちの漁村夕照図で、南宋時代の画家夏珪様式の作品とされます。

画面右上に7言絶句の賛を記し、「髑髏軒珠光」の署名があります。

珠光落款のある作品はいくつかは伝わっていますが、幕末〜明治の画人伝『古画備考』では、この落款を茶人の珠光であるとしています。


伝村田珠光《漁村夕照図》(室町時代・15世紀)新町三井家旧蔵

 

次も師の紹鷗作の竹茶杓です。

すらりと伸びた双樋の竹で、切止近くに節のある元節の茶杓です。

竹茶杓の初期の様相をうかがわせます。

筒は千宗旦による追筒で、花押を〆印とし、「紹鷗作 咄斎」と極め書きが記されています。

もと東本願寺に伝来したもので、表千家八代啐啄斎と十二代惺斎の箱書があります。


武野紹鷗《竹茶杓 筒千宗旦》(室町時代・16世紀)室町三井家旧蔵

 

千利休が身内?の女性「千いと」(未詳)に宛てた仮名消息は興味深いです。

利休は1581年頃に京都 紫野の大徳寺門前に屋敷を構えたとされます。

紫野から堺の利休屋敷にいた「いと」に宛てたものでしょう。

こがらすの天目を急いで内密に誰かに持たせて届けて欲しいという内容です。

「たうくん」は信長没後に堺に戻った荒木村重(道燻)でしょうか。

 

「こがらすの天目」は、『天王寺屋会記』の1577年7月7日の利休茶会にはじめて見えています。

この茶会は、堺の屋敷の茶席披きを兼ねた茶会であったようで、こがらすの天目と高麗茶碗を使っています。

このほか、翌年の6月27日と1581年9月3日の茶会でも使用していますが、1588年4月3日に秀吉を通じて徳川家康に贈られました。


千利休《千利休筆仮名消息(七月十五日付 せんいと宛) 》(桃山時代・16世紀)北三井家旧蔵

 

唐物肩衝茶入の代表とされるのが、《唐物肩衝茶入 北野肩衝》です。

足利義政が所持した東山御物で、古くから唐物肩衝茶入の典型とされてきました。

豊臣秀吉が1587年に行った北野大茶湯で、烏丸家から烏丸肩衝としてこの茶入が出されました。

利休が秀吉にこの茶入の存在を知らせ、秀吉が立ち返って見たといいます。


《唐物肩衝茶入 北野肩衝》(南宋時代・12〜13世紀)北三井家旧蔵

 

利休とも関係の深い聚楽第が描かれた《聚楽第図屏風》も紹介されています。

聚楽第は、1587年9月に秀吉の屋敷を兼ねた居城として建てられ、その記念に北野大茶湯が行われました。

利休の屋敷は聚楽第の濠外で、現在の晴明神社の辺りにあったといいます。

秀吉から切腹を命じられ、1591年2月28日に、ここで自刃して果てたとされます。

 

聚楽第はその年の12月に関白となった豊臣秀次に与えられましたが、1595年7月秀次の高野山追放と自刃により、8月には解体・破却され、わずか8年間しか存在しませんでした。


《聚楽第図屏風》(桃山時代・16世紀)新町三井家旧蔵

 

その利休像を描いた作品が、《千利休画像》です。

頭巾を被り僧服を着て袈裟をかけ、手に竹杖を持って立つ千利休像です。

落款などはありませんが、北三井家六代の三井高祐の筆とされています。

秀吉の勘気に触れた大徳寺山門上に安置された利休木像を描いたものでしょうか。

なお、その木像は利休自刃の3日前に一条戻橋にて磔の刑に処され焼かれたといいます。


三井高祐《千利休画像》(江戸時代・18〜19世紀)北三井家旧蔵

 

利休が好んだ茶道具に、シンプルな丸い形の《日の丸釜》があります。

輪口で、鬼面の鐶付や細やかな金膚は与次郎らしい繊細さがあります。

この釜は1887年に京都博覧会の会場で行われた三井家と表千家による明治天皇への献茶の席で使用され、「日の丸」の名への御下問があり、記念に日の丸茶碗が作られました。


与次郎《日の丸釜》(桃山時代・16世紀)北三井家旧蔵

 

古田織部の美意識は破格の美といわれます。

織部好とされる沓形茶碗が1599年に登場したわけですが、利休没後からこの時期まで8年余りの間に、織部を取り巻く時代に大きな変化があったことが考えられます。

その一つは、文禄・慶長の役です。

秀吉以下諸大名が肥前名護屋城に集結し、朝鮮派兵の前進基地となった城下には織部も参陣しています。

もう一つは、南蛮趣味の大流行です。

信長が南蛮文化に非常な興味を示したところから南蛮趣味が広まりましたが、南蛮趣味が最も流行したのは1591年に秀吉が天正少年遣欧使節を引見してからで、その後20年くらい続いたとされます。

文禄・慶長期(1592〜1615)はまさに南蛮趣味の時代であり、それはまた、豊臣から徳川新体制へと変わる時代の転換点で現れる「かぶき者」と呼ばれる異様なファッションや風俗の流行へと繋がっていきます。

織部の美意識にはそのような時代の気分が影響していると思われます。

 

1599年2月に織部が催した伏見での茶会で、神屋宗湛が「ウス茶ノトキ、セト茶碗ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と日記に記したものが、織部好とされる歪みのある沓形茶碗でした。

宗湛は剽軽な印象を受けたようです。

その沓形茶碗に倣って朝鮮半島で焼かれたのが《御所丸茶碗》(朝鮮時代・17世紀 北三井家旧蔵)と考えられています。

御所丸茶碗は、日本からの注文品で、朝鮮王朝との公貿御用船「御所丸」によって運ばれたことに名の由来があるとされますが、17世紀中頃からの名称のようです。

制作は文禄・慶長の役の後、国交が回復する慶長14年(1609)も間もない頃と推定されていますが、織部好とされる沓形茶碗の流行が前提にあると思われます。

 

そして、目を引くのがトックリの口を欠いて花入にした《備前瓢掛花入》(桃山時代・16〜17世紀 室町三井家旧蔵)です。

瓢箪形の徳利を、口部を欠いて掛花入に仕立てたもので、背面の上部に鐶が付いています。

いつこのような仕立てをしたのかは分かりませんが、完品を打ち割ってその変化を面白がるという織部の「破格」の美意識に近いものがあります。

窯中で降った灰と赤い土膚がたくまざる「景色」を作り出しています。

 

小堀遠州の美意識を考える場合、すぐに思い浮かぶのが「綺麗さび」という言葉です。

これほど遠州の美意識を言い当てている表現もないのではないでしょうか。

この言葉は大正期以降に使われるようになりましたが、江戸時代の茶書に「織理屈。綺麗キッパハ遠江、お姫宗和ニムサシ宗旦」という歌があり、「綺麗」という言葉が出てきます。

理屈っぽい織部、綺麗できっぱりした遠州、お姫様好みの宗和に、侘びてむさい宗旦という意味であろうか。

それぞれの茶道具に対する印象を詠ったものとしても納得できます。

キッパは刀の刃をいいますが、綺麗できっぱりしていると解釈すれば分かりやすい。

 

鳥の絵がある唐物天目が中興名物である《玳皮盞 鸞天目》(南宋時代・12〜13世紀 室町三井家旧蔵)です。

玳皮盞は、中国山西省の吉州窯で焼かれた天目で、胴の釉の景色が玳瑁の甲羅すなわち鼈甲に似ているところからの名称です。

見込みには尾の長い鳥が配されており、想像上の瑞鳥とされる「鸞」に見立てて「鸞天目」、あるいは「尾長鳥」とも呼ばれます。

 

中興名物は、松平不昧が編纂した『古今名物類聚』で、名物茶入の中興者を遠州と考え、遠州由来の茶入を鑑別して中興名物と定めたところから始まります。

この概念は茶碗などにも広がりました。

また、それ以前の名物を大名物と呼ぶようになりました。

中興名物の多くには、遠州の箱書や色紙が添っています。

 

遠州が関わった茶陶として、《薩摩耳付茶入(窯分=国焼 薩摩)》(江戸時代・17世紀 北三井家旧蔵)が紹介されています。

遠州が切形をもって焼かせたと言われる薩摩甫十瓢箪茶入と釉の調子がよく似た茶入です。

遠州指導による薩摩焼の実態はよくわかっていませんが、この耳付茶入もその範疇に入るものと思われます。

三井家が幕府の呉服御用を請ける仲介をした笠間藩主牧野家から1818年に北三井家六代三井高祐が拝領したものです。

 

近年、茶の湯の歴史を問い直す新たな研究が多く発表され、著名茶人の「作られた伝説」を見直し、「真実の姿」が追求されています。

本展は、その新研究を視野に入れながら、三人の美意識を、利休の「わび・さびの美」、織部の「破格の美」、遠州の「綺麗さび」を柱として展示を構成しています。

その美意識を感じ取り、茶の湯の美学という観点から三人の「真実の姿」に思いを馳せてみませんか。

 

 

 

 


 

 

 

会期:2024年4月18日(木)〜6月16日(日)

会場:三井記念美術館

   〒103-0022 東京都中央区日本橋室町2-1-1三井本館7階

開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで)

休館日:月曜日(但し4月29日、5月6日は開館)、5月7日

主催:三井記念美術館

お問合せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)