ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?ー国立西洋美術館65年目の自問 | パラレル

パラレル

美術鑑賞はパラレルワールドを覗くことです。未知の世界への旅はいかがですか?

ご連絡はこちらまで⇨
yojiohara21@gmail.com

国立西洋美術館で開催中の「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?ー国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」展へ行って来ました。


国立西洋美術館の母体となった松方コレクションが、日本の画家たちに本物の西洋美術を見せようという松方幸次郎の意思によって築かれたように、その歴史を紐解くと、国立西洋美術館は未来のアーティストたちを産み育てる場として期待されていたことがわかります。

本展は、その根源的な目的を見つめ直し、国内外で活躍する現代アーティストが参加し、国立西洋美術館やそのコレクションがいかに、こんにちの日本に住まう美術家たちを触発しうるか、あるいは彼らー彼女らの作品が国立西洋美術館の所蔵品と拮抗するのかなどを見ていくものです。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

0. アーティストのために建った美術館?

1. ここはいかなる記憶の磁場となってきたか?

2. 日本に「西洋美術館」があることをどう考えるか?

3. この美術館の可視/不可視のフレームはなにか?

4. ここは多種の生/性の場となりうるか?

反ー幕間劇ー

上野公園、この矛盾に充ちた場所:上野から山谷へ、山谷から上野へ

5. ここは作品たちが生きる場か?

6. あなたたちはなぜ、過去の記憶を生き直そうとするのか?

7. 未知なる布置をもとめて

 

「ミュージアム」の語源である古代ギリシア語の「ムセイオン」は、学芸を司る9人の女神たち、ムーサイを祀る場を指していました。

彼女らの母はムネモシュネ、つまり「記憶」の女神にほかなりません。

してみると「美術館」なる制度を産み落とした母は、まさしく記憶なのだといえぬことはないでしょう。

実際、美術館の母体となるのは「コレクション」と呼ばれるもの、いわば記憶の集積です。

とすれば、美術館は様々な記憶群が同居し、それぞれの力学を交錯させあう磁場のようなものともいえるでしょう。

 

「Unknown Voyage」ーすなわち、未知なる航海。

「すべて腐らないものはない」という思想のもと、腐触銅版画の可能性を追求しつづけてきたのが、中林忠良です。

腐触液の「海」の中では、あらゆるものを人為的には操作しきれず、しかしだからこそ「未知」の地形のごとき溝をもった版が常に新たに生まれてくる。

そうした可能性を探る旅が、腐触過程にほかならないと中林が考えていることを、その言葉は示唆しています。

 

しかし、中林が相手にしている時間はその種のものばかりではありません。

中林はいつも、歴史の時間とも向き合いつつ「未知なる航海」をしてきました。

彼は制作活動において、ロドルフ・ブレダンからオディロン・ルドン、長谷川潔から駒井哲郎へといたる歴史的な「血脈」を意識してきたからです。


中林忠良《Transpositionー転位ーⅢ 腐食過程Ⅰ》(1983)作家蔵


中林忠良《転位’92ー地ーⅢ(出水)(1992)作家蔵

ルドルフ・ブレダン《森のなかの小川》(1880)国立西洋美術館

 

1952年にフランス政府より寄贈返還され、国立西洋美術館の母体となった370余点の松方コレクションには、藤田嗣治の素描や田中保の絵画コレクションが含まれていました。

しかしこれらは、国立西洋美術館の展示空間にあっては日本の芸術家の産物というよりはむしろ、エコール・ド・パリの画家の作品ー「西洋美術」ーとして扱われます。

それらはそこでは、決して「日本近代美術史」ないし「日本近代絵画史」を描きだすためのピースとはなりません。

 

他方で、各国の美術館や美術史、また何よりも展覧会は、脱西洋中心主義化を推し進めて久しい。

そうした傾向がとりわけポスト植民地主義の浸透とともにグローバルに見慣れたものになった状況下でも、国立西洋美術館は自らの名からして、西洋中心主義から逃れられません。

とはいえ、本展ではその様態をわずかなりとも揺さぶろうとしています。

例えば、小沢剛の《帰ってきたペインターF》を、国立西洋美術館の藤田嗣治のコレクションと併置しています。

小沢のその作品は、いわば歴史に”if”を持ち込みながら、藤田が第二次世界大戦中に戦争画を描いたのち、戦後に「パリ」に戻るのではなく。インドネシアの「バリ」に辿り着くという物語を紡ぎ出しています。

 

一方、小田原のどかによる新作インスタレーションでは、地震が絶えない日本に建つ美術館に固有の課題がロダンの彫刻を横倒しにして展示することなどを通じて示され、さらにその「転倒」に1922年の「水平社宣言」の起草者として知られる西光万吉の「転向」が重ねられることで、極めて複雑な問題提起がなされています。


小沢剛《帰って来たペインターF》(2015)森美術館


オーギュスト・ロダン《青銅時代》(1877(原型)) 国立西洋美術館、松方コレクション

 

国立西洋美術館には「西洋美術」のみを専門にするという「枠組み」があります。

しかし、そればかりではなくこの美術館は、他にももろもろの「フレーム」を持っています。

そしてそれらには、可視的なもの/不可視的な者の双方があるはずです。

フレームは何かを境界づけ、限界づけます。

あるフレームの内部にいるとき、その外にこぼれ落ちてしまっているものや置き去りにされた可能性は見えづらい。

ならば、アーティストたちの眼に国立西洋美術館が抱える可視/不可視のフレームはいかなるものであると映じるのでしょうか。

 

田中功起は、国立西洋美術館の不可視のフレームとでもいえるものを問題化しました。

田中は、国立西洋美術館に対する複数の「提案」を作品としています。

具体的には、常設展の絵画を車椅子や子どもの目線に下げて掛けること、乳幼児向けの託児所を臨時で設けること、くわえて展示室内の翻訳言語の選択を拡張することなどです。

こうした種々の「提案」を通じて田中は、美術館が暗黙のうちに前提としている「鑑賞者」の取捨選択を批判的に浮き彫りにしようとしています。


田中功起《いくつかの提案:美術館のインフラストラクチャー(部分)》(2024)

 

数々のミュージアムが立ち並ぶ上野公園。

国立西洋美術館もまた、そんな「文化エリア」に所在します。

しかし、昨今では数が減ってきたように思えるにせよ、美術館から一歩外に出れば、そこは路上生活者の方々が住まう場でもあります。

上野公園がより整備され、ある意味では浄化されていった反面、路上生活者の姿は見えにくいものとなった感があります。

しかし、この美術館はこれまでそのような公園内の現実を直視してきたのでしょうか。

美術館の空間はある意味では、その外の世界を忘却させもするものではないでしょうか。

 

本セレクションに並ぶのは、上野と同じく路上生活者が少なくない山谷地区におよそ一年通い、そこで暮らす人々とこの上なく丹念にコミュニケーションをとり、上野公園でのアウトリーチにも参加してきた弓指寛治によって描かれる膨大な絵たちです。

ここで試みられるのは、決して社会問題の告発ではありません。

むしろ、国立西洋美術館がこれまで見つめてこなかった世界の様相です。


展示風景より


展示風景より

 

一般に、美術館というのは(半)永久的に作品を未来へと残してゆくことを望む機関です。

あるいは、そうしたことを欲望する制度ともいえるでしょう。

作品たちの老いをくいとめ、なるべく安定した環境でそれらを不死にしようとする場ーそれが美術館だといって良いかもしれません。

このことは、美術館が時に「墓所」に喩えられてきた事実と表裏の関係をなすようにも思えます。

美術館が作品たちの永遠を求めるとき、それらは朽ちてゆく生のプロセスを停止させられ、何か冷凍保存にも似たかたちで不変の状態を作り出されます。

その場合、作品は生を享受しているのか、それともすでに死んでいることになるのでしょうか。

けれども、いくら不変を望もうと物質しての作品は変化し続けます。

死んでいるということなど、実際にはあり得ません。

それゆえ、美術館は、作品の変質を最小のものとしつつ、老いの速度をできるだけ緩慢あものとできる保存の場でなければなりません。

 

竹村京は、2016年にルーブル美術館で破損した状態で発見されたのち、国立西洋美術館の所蔵作品となった旧松方コレクションのクロード・モネ《睡蓮、柳の反映》が、この美術館において最低限の保存処置のみ施されていることに触発され、その絵画の欠損部分を様々な色の絹糸で想像的に「修復」する作品を手掛けました。


クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》(1916)国立西洋美術館、松方幸次郎氏御遺族より寄贈(旧松方コレクション)

竹村京《修復されたC.M.の1916年の睡蓮》(2023-2024)作家蔵

 

「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」

この問いには結果として”Yes”とは答えづらいものがあります。

国立西洋美術館がこんにちの日本に棲まう気鋭の美術家たちをおのずと刺戟することはほとんどないのかもしれません。

それゆえ、本展では、国立西洋美術館のコレクションがいまを生きるアーティストをどのように触発してきたか/しうるかと問うのはやめ、一部のペインターたちの絵画が国立西洋美術館の所蔵作品といかに拮抗するのかを見ています。

 

そのアーティストの一人、坂本夏子は、次のような意識を一貫して抱えてきました。

「わたしにとって絵は、すでにあるイメージをを表出するためのものではなく、未だ無い空間にふれるための方法です」。

もはや未知なる絵画などない、となかば信じられているはずの時代にあってなお、坂本はそれを求め続けます。

この画家はおそらく、ひと筆を置くたびに、描きうるものの布置は直前の予測なり計画を超え、常に別様に組み変わると考えています。

局面ごとに、画面内には有限個の選択肢には還元できない次の手が新たに、潜在的に生まれてきます。


坂本夏子《Tiles|Signals(Quantum Painting001)》(2021)作家蔵


坂本夏子《階段》(2016)国立国際美術館


ピエール=オーギュスト・ルノワール《木かげ》(1880頃)国立西洋美術館、松方コレクション

 

本展は、国立西洋美術館が開館して65年目にして初となる現代アートの展覧会です。

いつもの国立西洋美術館とは違う雰囲気の中、この美術館が「未来の世界が眠る部屋」となってきたかどうかを考えてみてはいかがですか。

 

 

 

 

 

会期:2024年3月12日(火)〜5月12日(日)

開館時間:9:30〜17:30(金・土曜日、4月28日(日)、4月29日(月・祝)、5月5日(日・祝)、5月6日(月・祝)は9:30〜20:00)

     ※入館は閉館の30分前まで

休館日:月曜日、5月7日(火)(ただし、3月25日(月)、4月29日(月・祝)、4月30日(火)、5月6日(月・休)は開館)

会場:国立西洋美術館 企画展示室

主催:国立西洋美術館

協賛:NTT ArtTechnology、DNP大日本印刷

特別協力:Forbes JAPAN

協力:西洋美術振興財団

お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)