大吉原展 | パラレル

パラレル

美術鑑賞はパラレルワールドを覗くことです。未知の世界への旅はいかがですか?

ご連絡はこちらまで⇨
yojiohara21@gmail.com

東京藝術大学大学美術館で開催中の「大吉原展」へ行って来ました。


1618年、日本橋葺屋町に開設された幕府公認の遊廓は、吉原と呼ばれました。

40年後、都市整備による移転計画があり、明暦の大火(1657年)直後に浅草浅草寺北の日本堤に移転してからは、新吉原と称されています。

 

吉原は公認遊廓であるがゆえに独自のしきたりや遊興のルールが定められていました。

大門の前には高札が掲げられ、医師以外は馬や駕籠を用いてはならない、鑓や長刀は門内に持ち込むことは出来ないと記され、また武士であっても妓楼内では刀を預けるなど、吉原だけの秩序がありました。

特に富裕な客層に対して格式を重んじる遊興を提供する場として、洗練を深めていきました。

18世紀には、豪商や札差たちが贅を尽くした遊びをしたことで吉原独自の行事が習慣化されました。

客は通人(通り者)としての美意識を磨き、遊女たちは洗練された教養、鍛え抜かれた芸事で客をもてなすだけでなく、時には意気地を張って客を振ることもありました。

しかし、吉原の遊女のほとんどが地方の貧しい農家から年季奉公という名目で売られてきた少女たちであり、着飾った花魁に象徴される絵画世界の裏には前借金の返済にしばられた遊女たちの境遇がありました。

 

その一方で、吉原には市中の遊廓とはまったく違う格式が備わっていたことも確かです。

3月にのみ中之町に桜を植え、お盆には遊女を供養する燈籠が懸けられるなど、贅沢に非日常が演出された虚構の世界だからこそ、豪商だけでなく、広く江戸の庶民層にも親しまれ、地方から来た人たちは吉原見物に訪れました。

 

本展は、日本美術を代表する絵師たちによって描かれた絵画作品を中心にして、吉原の歴史、町の様子、妓楼の構造、遊興の方法、しきたり、遊女の教養、ファッション、文芸サークルなどについて、テーマごとに紹介し、当時の美意識を探るものです。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

第一会場 吉原入門

第二会場 江戸前期 武家と豪商たちの遊興

     蔦屋重三郎と吉原の出版界

     錦絵美人画

     後期江戸吉原 格式と大衆化

     天明狂歌の世界

     吉原の近代

     『たけくらべ』の世界

第三会場 市中から吉原へ

     江戸町一丁目 花見 大見世

     揚屋町 茶店から妓楼へ

     京町一丁目 大文字屋サロン

     京町二丁目 玉菊燈籠、八朔

     俄、吉原芸者、花魁の教養

     江戸町二丁目 遊女のよそおい、切り見世、よそ行き、雪の吉原

     仮宅、後朝の別れ

第四会場 江戸風俗人形

 

大門をくぐり、メインストリートの仲之町を見渡すと、道の両側には茶屋(引手茶屋)がびっしりと並びます。

中之町から左右に折れれば江戸町、京町などが広がり、通り沿いには大小様々な妓楼が軒を連ねました。

 

妓楼はランクにより大見世、中見世、小見世と区別されました。

大見世の遊女は茶屋を通さなければ会えなかったので、妓楼から茶屋へ客を迎えに行く一行を花魁道中と呼んでいます。

 

鳥居清長《新吉原江戸町二丁目丁子屋之図》(天明(1781〜89)頃 大英博物館)は、60人を超える遊女を抱える大見世である、丁子屋を描いた作品です。

右手奥には丁字屋の家紋を染めた暖簾が見えます。

その前には茶屋から客と連れ立って来た遊女の姿があります。

黒頭巾を被った遊客はこれから二階に上がろうとしています。

その手前、画面の右半分は土間と板間にわたって大きな台所が描かれます。

土間の壁側には手前から井戸、大竈、その上には十二灯明、御神酒徳利と備えた荒神様の祀棚、その奥に米俵があり、一番手前の板間では料理人が魚をさばいたり、煮物などをしています。

 

一方、画面の左半分は内証と呼ばれる妓主が居る広間で、周りに折り鶴の飾りがある縁起棚が見えます。

この場所には妓主と女房が構えて見世全体を見渡しているのが通常ですが、扇子を持った人物は遊女や男芸者に囲まれているところからすれば特別な客であるかもしれません。

 

江戸に暮らす男性にとって吉原の遊興は、美しく教養に秀でた憧れの遊女との疑似恋愛の駆け引きを味わう面白さがありました。

その遊女とともに過ごす酒宴は諸芸を楽しみ風流に遊ぶことで日々の憂さを忘れさせてくれる場であり、ある時は商談相手や同好の友人たちとの社交場ともなりました。

 

中見世以上の妓楼では、客と遊女はかりそめの夫婦となります。

そこには吉原独自の格式がありました。

初めての登楼の日、客は見立てた遊女と対面し固めの盃を交わします。

これを「初会」といいます。

盃事の所作が済むと酒宴となりますが、遊女は客のそばには寄らず、言葉も交わさなければ飲食もしないままその日はお開きとなります。

客はそれでも気持ちよく遊んで散財し、馴染みになる意思を示すのです。

 

二会目に登楼することを「裏を返す」といいます。

この日の酒宴では遊女は客のそばに座り、言葉も交わすようになります。

客が裏祝儀という遊女の揚代と同額の祝儀を若い者に与えると、若い者からは返礼の酒肴が届けられます。

 

三会目に登楼して酒宴を張り、馴染み金と呼ばれる見世の人々への祝儀を払うと晴れて「馴染み」と認められ、遊女も打ち解けて宴に興じたのち、床入りが許されます。

枕と交わす際には床花という遊女への祝儀を煙草盆の抽出しなどにこっそり入れておくのが粋とされました。

床花をもらった遊女は茶屋へ祝儀を出し、客は返礼として煙草入れや鼻紙袋を贈りました。

 

古山師政《吉原遊興図》(元文(1736〜41)〜寛保(1741〜44)頃 千葉市美術館)は、馴染みとなった証として、遊女が隣の羽織を着た客に長煙管を渡そうとしている場面が描かれています。

三味線を調整する座頭の隣には、妓楼の主人夫婦も出て来て挨拶をしています。

遊女の隣の赤い振袖の娘は、まだ一人前と認められていない振袖新造、その隣は男装した子供の芸者(禿芸者)と禿、黒い羽織の幇間、さらに三人の男たちがいるのも、男芸者か妓楼の男たちらしく、格の高い妓楼ならではの丁重な客の迎えようです。

 

1760年あたりを境として、吉原では遊女の最高位だった太夫がいなくなり、代わって女芸者が現れました。

太夫の呼称は上方に由来します。

 

江戸吉原では三浦屋の高尾太夫などが有名で、元吉原時代には75人の太夫が居た時もありました。

太夫は美貌もさることながら、芸能面でも高い技能が求められました。

『色道大鏡』(1678年)によれば、身に付けるべき芸術は、三味線、琴、胡弓、貝覆、歌留多、歌文字鎖、双六、手鞠、羽根つきなどであったといいます。

歌文字鎖とは和歌の終わりの句と同じ文字を次の句の頭において鎖のように連ね、あるいは一人が古歌を読むと次の者がその歌の末尾の音を頭に置いた古歌を詠む遊びであることから、古歌の和歌に通じていなければできませんでした。

そして、筆跡の美しさも重要で、五代高尾太夫のように能書家として知られる太夫もいました。

 

扇屋瀧橋《和歌懐紙》(寛政11年(1799) 個人蔵)は、五明楼こと江戸町一丁目の扇屋宇右衛門抱えの新造、瀧橋による自筆の書です。

「いたすらにすくる月日はおほかれとは見てくらすはるそすくなき」と『古今和歌集』の藤原興風の和歌を認めます。

画面右端にはこの懐紙を貰った人物によるメモ書きがあり、桜の盛りである3月11日の日付があります。

登楼した遊客から記念に貰った遊女が、こうして共に花見をする感慨を詠った書と解されます。

「五明楼 瀧はし書」と落款と印章も捺すところまで全体にバランスが取れており、こうした作品を書き慣れていたことを思わせます。

 

江戸の遊郭は現在では存在せず、今後も出現することはありません。

本展では、失われた吉原遊廓における江戸の文化と芸術について、ワズワース・アテネウム美術館、大英博物館からの里帰り作品を含む国内外の名品の数々で、歴史的に検証し、その全貌に迫っています。

見どころ多数の展覧会となっていますので、時間に余裕を持ってゆっくり観覧することをおすすめします。


 

 

 

 

 

会期:2024年3月26日(火)〜5月19日(日)

会場:東京藝術大学大学美術館

   〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8

開館時間:午前10時〜午後5時(入館は閉館の30分前まで)

休館日:月曜日(ただし4月29日(月・祝)、5月6日(月・振休)は開館)、5月7日(火)

主催:東京藝術大学、東京新聞、テレビ朝日

特別協力:台東区立下町風俗資料館、千葉市美術館

輸送協力:日本航空、日本貨物航空

後援:台東区

助成:藝大フレンズ賛助金

お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)