開館20周年記念展/帝国ホテル二代目本館100周年 フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築 | パラレル

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パナソニック汐留美術館で開催中の「開館20周年記念展/帝国ホテル二代目本館100周年 フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」へ行って来ました。


自然と人間が共生する「有機的建築」を提唱し、落水荘やグッゲンハイム美術館といった数々の美しい建築を遺したライトは、アメリカ史上最も偉大な建築家と称されてやみません。

文化と科学技術が大きな変化を遂げた時代に生み出された数多くの作品の特徴である華麗な装飾、独自の存在感を放つ造形、素材と構法の革新的な扱い、未来的なヴィジョンにはまさに天才の所業が感じられます。

そしてここ日本には、本国・アメリカ以外で唯一ライトの建築が現存しています。

熱心な浮世絵コレクター・ディーラーとしての顔を持つ彼は、実は日本と意外なほどゆかりの深い建築家でもありました。

 

本展は、ライトの日本では四半世紀ぶりとなる回顧展です。

 

セクション1. モダン誕生 シカゴー東京、浮世絵的世界観

セクション2. 「輝ける眉」からの眺望

セクション3. 進歩主義教育の環境をつくる

セクション4. 交差する世界に建つ帝国ホテル

セクション5. ミクロ/マクロのダイナミックな振幅

セクション6. 上昇する建築と環境の向上

セクション7. 多様な文化との邂逅

 

フランク・ロイド・ライトによる帝国ホテルのデザインは、19世紀末から20世紀初めにかけて近代都市として台頭したシカゴと東京との対話の中から生まれました。

明治維新に伴い1868年に江戸が東京に改称され、近代的な首都へと変貌していったのと同じ頃、シカゴはアメリカ中西部最大の中心都市となりました。

それは、1871年のシカゴ大火からの復興事業を追い風に、進歩時代における都市美運動である1909年のシカゴの都市計画「バーナム・プラン」に想を得ていました。

ライトは、ウィスコンシン州立大学で1年間学んだ後、1887年にシカゴに移住すると、建築事務所での実務経験を求めて、住宅建築で著名なジョセフ・ライマン・シルスビーと、さらにダンクマール・アドラーとルイス・サイヴァンの事務所で建築家としての道を歩み始めます。

 

ライトと日本のデザイン文化との関わりは1893年のシカゴ万博を背景に生まれました。

そこにはミシガン湖の浅瀬に浮かぶように建つパビリオン、鳳凰殿がありました。

時はジャポニズムの時代であり、日本の「浮世絵」に魅了された時代です。

ライトはシルスビーやサリヴァンなど、東洋美術愛好家たちの輪に触れます。

そして、1896年に出版した『ハウス・ビューティフル』のなかで、草や野の花の写真を通して、浮世絵についての彼自身の解釈を披露しました。

和紙にコロタイプ印刷したそれらの写真は、彼がコレクションしていた歌川広重の《撫子に蝶》(1836-40)と強く共鳴しています。

 

建築に対するライトの有機的アプローチは、様々な環境や気候との関わりがありました。

ウィスコンシン州のなだらかな地域やシカゴ周辺の中西部大草原から、地震の多い日本の環境、ロサンゼルスの乾燥した地中海性気候、アメリカ南西部のソノラ砂漠まで、地域特有の建築はそれぞれ独自の環境に呼応していました。

 

ライトの水との関わりにおいて最も注目すべき取り組みは、「落水荘」として知られるエドガー・カウフマン邸でしょう。

ペンシルベニア州ミルランの人里離れた森林地帯に位置するこの邸宅は、敷地が持つユニークな特性を十全に生かした設計となっています。

劇的なコンクリート製キャンチレバーが急勾配の滝の上に伸び、地元で切り出された石で建造された支柱によって支えられた空中テラスは、この家が岩だらけの川岸から直接湧き出てきたかのような印象を与えます。

 

また、ライトは教育こそ民主主義の基本であると考え、その理想の提示として自ら一種の学校でもあるタリアセン・フェローシップを設立しました。

彼の心に深く植え付けられていたのは、当時の最も進歩的な教育理論であり、母方の一族ロイド・ジョーンズ家由来の信念であり、そして幼少期と青年建築家時代を過ごした19世紀の経験でした。

 

1886年、ライトの叔母であるジェーンおよびエレン・ロイド・ジョーンズは、ウィスコンシン州スプリンググリーンにヒルサイド・ホームスクールという先駆的教育機関を設立しました。

そこは後に1911年になってライトが自宅兼アトリエであるタリアセンを建設することになる、まさにその地でした。

新興の児童発達理論に基づき、ヒルサイド・ホームスクールでは、ラテン語やギリシャ語といった古典的な学習分野の暗記、暗唱を中心とした従来型の教育方法を否定し、体験や実験による直接的な学びを優先しました。

 

そして、ライトは日本においても1921年、東京に進歩的な自由学園を設計しました。

羽仁もと子・吉一夫妻が女学校として設立した自由学園の教授法に彼は心から共鳴していました。

1932年、タリアセン・フェローシップを設立した際、ライトはこれらの考え方を統合することになります。

ウィスコンシン州スプリンググリーンの一族の根拠地であり、数十年前にヒルサイド・ホームスクールのあった同じ敷地で、同様に農業、ガーデニング、料理、建設作業など「実践によって学ぶ」活動が中心に据えられました。

 

東洋と西洋を往来するライトの旅は、言語的、視覚的、文化的な様々なかたちでの翻訳経験を彼に与え、10年に及ぶ帝国ホテルの設計を段階的に形作りました。

1913年初めにライトは東京に戻り、およそ4ヶ月間、候補地の調査や建物に使用するための材料の検討を行い、鹿鳴館の北側で初代帝国ホテルの西隣、日比谷公園に面した敷地で新ホテルの初期案に着手します。

 

鳥瞰透視図によって示される1914年の初期案には、公的な中庭を囲み、左右対称の棟によって構成される複合施設が描かれています。

この左右対称で構成された建物は、ライトが1905年の旅で目にした東本願寺名古屋別院など、日本の寺院構成と響き合うところがありますが、厳密な左右対称性は側面から描かれており、皇居の方向から見た場合の左右非対称のパースペクティブが強調されています。

 

帝国ホテルは、ライトの日本への強い関心を体現した最も英雄的な傑作となりました。

残念なことに、完成したばかりのホテルは関東大震災に襲われて倒壊は免れたものの即刻被害を受け、さらに第二次世界大戦時には焼夷弾を受けて最上階孔雀の間と南翼のかなりの部分が失われることになりました。

進駐軍による接収時には、不幸にも大谷石がペンキで白く塗られるなど、ライトの当初の構想に対する冷淡な改変が加えられました。

 

旅行者増によるホテルの高層化への要求により、1967年、解体の鉄球の一撃が加えられました。

この時にはすでにホテルは老朽化し、ライトの当初のデザインに外付けのエアコンや他の装備が加えられていました。

帝国ホテルの保存に向けた努力により、地方山間部という全く異なる環境ではありますが、博物館明治村に正面ロビー部分が移築されることになりました。

今や象徴的な建物となったこの正面ロビー部分と共に、そのドローイングや残された遺品の数々は、過去と未来、東と西を融合させたライトのダイナミックなビジョンの革新性を照らし出しています。

 

ライトは生涯を通じて、「全体が部分のためにあること」と「部分が全体のためにあることーそこでは素材の本性、目的の本性、行為の全体の本性が必要性として明らかになる」ことを有機的に結びつける手段として、建築ブロックを取り入れました。

彼は『自伝』の中で、立方体、球、三角の基本的な形が揃ったフレーベルの積み木「恩物」が、幼少期、彼の指の感覚と「形態が感情になる」ということを常に結びつけたと述べています。

フレーベルの積み木は、生涯にわたって繰り返し検討される全体と部分の統合的でダイナミックな関係を維持するような空間体系を、新進の建築家にもたらしたのです。

 

また、ライトは帝国ホテルで1890年代にシカゴで編み出された湿地の上に高層ビルを建てる浮き筏基礎に着想を得て、東京の砂地や地震に対応するための独創的な構造方法を考案しました。

彼は、ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンの事務所で働いていた頃からこの方法に親しんでおり、生涯にわたって数々の高層ビルの設計に斬新な工法や構造技術を導入してきました。

 

ライトのタワーはますます高さを増していきます。

帝国ホテルはプレイリー・ハウスが水平方向に延び広がったものと見ることもできますが、設計過程を示すドローイングには彼の垂直志向の高まりが表れています。

ライトの高層建築への探求の頂点は、シカゴに建設されたダイヤモンド形の底面をもつマイル・ハイ・イリノイ計画案でした。

528階建てとなるこのビルの高さは、エンパイアステートビル(102階建て)の4倍以上になり、エジプトのピラミッドやパリのエッフェル塔など、世界の名だたる巨大建造物を圧倒していたはずです。

マイル・ハイ・イリノイは、都市の中心部を外に向かって押し出すのではなく、上方に押し上げようとするものであり、また周辺に他の大型高層ビルを建てる必要性を減じるものでありました。

実際には実現しませんでしたが、ライトはユーソニアと未来のリビング・シティの象徴として、ユートピア・プロジェクトであるブロードエーカー・シティ構想の緑豊かなランドスケープの中にこの建物を配したのです。

 

自らの活動の範囲をアジア、ヨーロッパからラテンアメリカへとグローバルに広げていくなかで、ライトは様々な文化的要素を取り入れながら普遍的な構法、素材、装飾を追求していきました。

帝国ホテルの仕事では、東洋と西洋の伝統を取り入れつつ両者の境界を「有機的に」解消し、その手法を他のプロジェクトでも実践していきました。

 

ライトが経験した世界への旅は、船や鉄道を用いた緩やかな思索の時間を伴うものから始まりましたが、自動車や飛行機の利用は旅の時間を加速します。

1937年に第1回全ソ連建築家会議への参加を目的としたライトのモスクワ訪問は、ブロードエーカー・シティ構想で表明された脱都市主義的な感情と、ソビエト連邦の反資本主義的信条との出合いとなりました。

1950年代にはライトは世界各地から学術栄誉賞を授与されたため、イギリス、ブラジル、メキシコを訪問し、地理上の到達範囲を広げました。

 

ライトはアメリカの田園地帯に広がる生活とそこでの労働のラディカルな再構築として、1932年にブロードエーカー・シティ構想を提示しました。

この計画案は、世界的なパンデミックを経験し距離と分散の課題に取り組んだ現代世界にも共鳴します。

テレコミュニケーション、自動車、飛行機といった近代技術は、1930年代に空間と時間の関係を再構築しましたが、今日の世界ではインターネットやドローンが「リビング・シティ」(いまを生きる社会)とは何かという根本的な問いを投げかけます。

リビング・シティ構想のビジョンの継続にライトが期待していたことは、創造的な魂をもつ社会であり、また自身の複層的なデザインがローカルとグローバルの両文脈のはざまで理解され続けることの重要性でした。

 

本展はコロンビア大学エイヴリー建築美術図書館で近年大きな成果を上げつつあるアーカイヴの調査結果が基となっています。

そこから浮かび上がってきたライトの幅広い視野と活動は、彼が提唱した、人間の主体性と自由のための建築を裏付けるものに他なりません。

世界を横断して活躍したライトのグローバルな視点は、21世紀の今日的な課題と共鳴し、来るべき未来への提言にもなるでしょう。


ユーソニアン住宅の原寸モデル展示(制作:有限責任事業組合 森の製材リソラ、磯矢建築事務所)

 

 

 

 

 


 

 

 

会場:パナソニック汐留美術館

   〒105-8301 東京都港区東新橋1-5-1 パナソニック東京汐留ビル4階

会期:2024年1月11日(木)〜3月10日(日)

開館時間:午前10時〜午後6時(入館は午後5時30分まで)

   ※2月2日(金)、3月1日(金)、8日(金)、9日(土)は夜間開館 午後8時まで開館(入館は午後7時30分まで)

休館日:水曜日(ただし3月6日は開館)

主催:パナソニック汐留美術館、フランク・ロイド・ライト財団、東京新聞

後援:アメリカ大使館、一般社団法人日本建築学会、公益財団法人日本建築協会、一般社団法人DOCOMOMO Japan、有機的建築アーカイブ、港区教育委員会

特別協力:コロンビア大学エイヴリー建築美術図書館、株式会社 帝国ホテル

助成:公益財団法人ユニオン造形文化財団

展示協力:有限責任事業組合 森の製材リソラ

会場構成:佐藤熊弥(tandem)