開沼博の『フクシマ』論はあんまり・・・ 2 | 浪江のニガヨモギ

浪江のニガヨモギ

福島第一原発から10キロにある実家を離れ…

小さい頃、浪江で県内のローカルニュースを見ていると

大したニュースじゃないじゃないか
 
と思うことがよくありました。

今でもそうですけど。



例えば、

自分が大きな大会でMVP級の活躍をしても

全く新聞には載らず、

逆に、福島市や郡山市の子供たちは

大会でもないのに大きく取り上げられる。



放送局や、新聞の支社がそばにあるから。



火事や交通事故も一緒ですね。

福島市ならボヤでもニュースになるけど

浪江だと何人か死んでもニュースにならない。


『遠くに取材に行くのは面倒くさいのね、

視聴者の数も少ないし、

だからスポンサーを獲得できるわけじゃないし

ガソリン代もかかるし』


と子供ながらに諦めていましたが



やっぱりこういう大災害、

政治がらみの原発事故が起こると、

そういう報道姿勢は正しくないんじゃないかと思うわけです。

会津若松市、郡山市、福島市の映像をつないで

『これが今のフクシマです』

といわれても、それは違うだろ!と



『警戒区域だから取材できない』

という言い訳がよくつかわれますが

実際、区域内に入っている報道関係者はいっぱいいるし

詳細な映像もあふれています。



やりようによっては、いくらでもできるのです。


手間や人間関係や抜け駆けを気にしてやらないだけ。


もちろん彼らもサラリーマンだから仕方ない面もあるでしょうけどね。




ひるがえって考えると

アカデミックな物書きをする人は

なおさら

足で書かなくてはいけないのではないか、と思います。

逆に言えば、

『ふくしまの部分はきちんと足で取材しましたけど

 B部分は自分で歩いてないので、

 この文章は、ふくしまのAの部分についての論考です。

 Aの部分からふくしまを推論しますけど

 B
の部分には当てはまらないかもしれません』


という場面設定をしっかり示してもらわないと、

地元民としてはどうしても突っ込みたくなるのです。

特に筆者が都市部の人だと、

冒頭のような幼児体験があるので

読む前から、うがった見方をしてしまいます。

開沼博の『フクシマ』論はあんまり・・・
http://ameblo.jp/1081t/entry-11483933749.html

で書きたかったのはそういう事です。




文章や原稿を書いてる人も

わかって書いてるとは思いますけど

特に県外の人が全国ニュースで見た場合や、

開沼博が評判だな!と手にとって読んだ人は

『これが今の福島か』と確実に誤解すると思うので、

書いてみました。


開沼博の『フクシマ』論はあんまり・・・
http://ameblo.jp/1081t/entry-11483933749.html

に出てくる伊藤さんや高畑さんの文章には

そのあたりの悩みがあるので、共感しますが

んー

んー

自分も地道にニガヨモギを書いていこうかと思います。



鶴瓶の家族に乾杯http://www.nhk.or.jp/program/kanpai/

釜石(前篇)の街中で会った人が

『街中だけじゃなくて、鵜住居(釜石の在の方)を、必ず、見てください』

と涙目で、でもキッパリ言う女の人がいました。

たぶん再放送は3月18日、月曜の午後4時になると思いますが

機会があればどうぞ。



以下、参考。




開沼博の『フクシマ』論についての書評の一部

~書評ソシオロゴス NO.8 / 2012清原悠さんの 「ムラの欲望」とは何か~  

から、その8ページ以下 と 注釈5を引用します

(引用はじめ)

だが、実際のところ本書では原発のない福島県浪江町はほとんど扱われていない。本書の
中で浪江町が扱われているのはp203 の町村合併に反対する話、pp261-262、pp265-267
 およびpp319-320(「DASH 村」に関連する話)であり、記述はごくわずかであると言って
よいだろう。

では、なぜ当初に掲げられた方針とは異なり、十分に浪江町は分析対象として
扱われていないのであろうか。


もちろん、本書は修士論文として書かれたものであり、時間の限られた中での執筆という
事情もあろう。だが、著者は2006 年からこのテーマに取り組んで調査を行っており、
単純な時間の問題とは言い切れないように評者には思われる。

誤解を恐れずに言えば、浪江町が本書で十分に扱われていないのは、
それが本書における議論枠組みではうまく扱えない事例、すなわち著者の
理論枠組みからするとノイズになるからではないだろうか。

このように考えるならば、浪江町の事例を本書の議論にぶつけていくことは
本書の議論枠組みの臨界点を見せてくれるものになるだろう。
言い換えれば、浪江町は福島の内部にありながら、
『「フクシマ」論』の外部にある事例なのである。

注5
このことは、本書の一部を論文化した「原子力ムラの秩序はいかにして可能か」
( 開沼2010)において傍証的に示されているように思われる。
著者の2010 年の論文では、浪江町への言及は次のようなものである。
  福島県浪江町では自分の住む町に原発設置計画があることを、
インタヴューした限りでは1 人も知っているひとはいなかった。(開沼2010: 111)
この記述の直後に、インタヴュイーの発言の引用が二つあるが、両者はそれぞれ
「新潟県刈羽村」および「原発建設予定地の青森県大間町」の出身者の言葉であり、
浪江町の人のものではない。
また、浪江町でのインタヴューを何名にしたのかの記述もないため、
浪江町についての言及はどれほど妥当性があるのかは不明である。
このように、著者の議論において浪江町がうまく扱えていない疑念が残るのである。

(引用終わり)