蜻蛉 / 乞局 ★7
この劇団の舞台を今まで3~4作見てきたけど一番好きでした。
最近のこの劇団は厳密な世界を構築するための情報量が多くて見ている側は終始それを消化する事に苦労をしてしまう事が多かったんですが、今回に関してはそういった要素が非常に簡素でその中で生きる人間の「キャラクター」とか状況の滑稽さを集中してみれた気がしました。
労働義塾の女の子がものすごくちっちゃくて可愛らしいのに口が悪くて偉いんだけど可愛かったり、常に優しい口調で人を馬鹿にしているホームレスな男とか、弟のことを考えるといいながら好き勝手吠えている弟とか。
状況も元彼が自殺した一室でその元カノ二人がいちゃついてたり、人が死んだ事から影響を受けて自分達も後に続こうと人が死んだ事を自分達のきっかけにしか思ってないものたちだったり。「弟が自殺した」という状況で自分勝手に生きる人間達とその状況が見ていてものすごく爽快だった。
演出に関しても時間軸を交差させながらもはっきりとそれを分断しなかったり、言葉を繰り返し言ったりあえてかぶせたり、よりそういった人間や状況を面白く実感させるために使えていた気がしました。
うーむ、勉強になりました。
anima
後輩の舞台を見たのでその事について書きます。
「上手い」と言いながら本当は心に残ってない人が多い芝居なのではないか。
今回の舞台、いわゆるプロの演劇が使うような手法が多々見られててそれを使う事で学生レベルとは思わせないような演出の完成度で観客を圧倒させている。良い意味でも悪い意味でも。発想自体が学生の発想というよりもプロの演出からヒントを得てのものが圧倒的に多い。演出家自身、一年前と格段に成長できたのはおそらくそういったプロの演出をまんま吸収してきたからではないかと思われる。でもそれが良くも悪くも観客を騙してしまっているのだ。
話は「あるアイドルのファンがそのアイドルを自分でプロデュースしようとする」という事を物語として展開させ、その際ファンは「アイドルの本当の姿」を映そうとする。アイドルの本当の願望を叶えたものとして。しかしそれに失敗しアイドルは「汚れたアイドル」として世間で認識され、そして人気を博す。ファンは「アイドルの本当の姿」じゃないとそんなアイドルの現状を嘆くもアイドルはあなたは私の事を本当に知ってるわけじゃなくて、その汚れた側面も私の持っているものだと、あなたこと本当の私を見ていない、人が他人を理解する事は不可能だ、とかそういって終わる。まぁ本当にそれだけなんだよね。あらすじでもいいくらい。
情報としては実感させる様な要素を含めているんだけど、実際に感情として見せる要素が欠如している。例えば、男がどんな人生を背負っていてアイドルを好きになって、どんな背景を生きているのかがふわふわしているし、アイドルを男がプロデュースする事で男がどれだけアイドルに近づいたかもふわふわしているし、結局「汚いアイドル」と言ってもどういうアイドルなのかもふわふわしている。
ここでいうふわふわしているというのは、情報としては成立しているんだけど「実感」としてはそれに対して何も背景とか具体的な展開を積み上げていないから実感できないのですよね。実感できたとしても舞台のおかげというより自分の恋愛と重ねることでその巨大なバックボーンをまんま主人公のバックボーンとして投影できるケースになってしまい舞台に内在しているわけではない。
ただ、演出の完成度の高いので見ていてそれ自体に圧倒される観客は多い。それで芝居自体も「面白かった」と思ったりすると思う。展開もわかりやすいし。でも、それって本当に「面白い」って思っているのか?上手いっぽいから「面白い」と思ってしまっただけではないだろうか。どういうことかというと、「アニマ」を見て「すごい」とか「面白かった」と言う人は多いと思うけど、心の底のどこかで「心に残る公演」になった観客は少なかったのではないかというところだ。
何かこれってある意味相当やばい。たぶん演出本人も完成された演出が展開の曖昧さをカバーしきれていると思えるし見ている側もそう思えるけど、みんな心の底ではカバーしきれてないのだから。
何かM居君の舞台も段階を踏まず「笑い」でそういう積み上げて観客に実感させる側面を表面的にごまかしてしまっているし、結構最近のサークルの芝居は心に訴えないファーストフード風味なんじゃないかと思ったりする。
I君の「演劇でやる意味がないんじゃないか」とY君の「上手いけど好きじゃない」はある意味核心をついた意見であり、ある意味あの芝居を面白いと信奉する人は「やばい」と僕は思う。
さくらん /★5
「美と鋭い視点ががっちりせず」
蜷川実花がこの映画を監督した事は少なくとも蜷川実花ブランドを少し傷つけたことは否めないと思う。というのも、そもそも写真界での極端な原色使いはサブカル好きな人間の中で異常なまでに人気獲得していたがそれが一気に社会的な知名度を得てしまった事で固定ファンの熱意が薄まっている気がするからだ。この映画が爆発的にヒットすればよかったのだけれど。
圧倒的な極彩美を誇る映像というよりも絵的な美しさはさすがの蜷川だけれど、そこに人間一人一人の存在を浮き立たせるものはない。共感するというより冷めた目で客観的にきよ葉の人生を眺める事になる。ただそれは物語はきよ葉が成長して一流の女郎になっていく展開なのだけれど、そこに苦労があったり波があるわけでもなくただ天才的な才能で上り詰め、そしてそこで出会う恋愛への苦悩をむしろ引き立たせている。その意味で「天才の一生」の話だから共感できないのは当然。見るべきは客観的にその天才の恋愛を眺めるということである。
しかしその恋愛すらもイマイチ。恋愛する理由がはっきりしていないのである。成宮君の役に対して恋をする。何かわからんけど相手の事がやたら気になったりしていくんだけど、それが納得できん。天才的女郎が何故あんな普通の男に異常な惹かれ方をするのかがわからない。これは原作でもそうだった気がするけれど、描くべきが「恋愛」であればその恋愛の過程も丁寧に描いてほしい。丁寧に描かなければ「笑う鬼だ」などという安野の切れ味のある台詞がむしろ「言いすぎ」に感じてしまう。
総じて、蜷川の「極彩美」と安野の「切れ味のある台詞」は存在しているのだけれど、作品全体にただようチープさにやられかえってダサくなってる気がしないでもない。バラバラにシーン一つ一つで見ればいいのだが。
しかし、これは力不足とシナリオの質のせいでもあるので安野と蜷川のコンビの才能がないわけではなく、むしろ次回作があれば期待したい。
・・・
そしてとりあえず僕としては蜷川のような世界観を作れる点と安野のような鋭い視点を兼ね備え、さらに展開に目が話せなくなるような作品を作りたいと思うのでした。
太陽の塔 /森見 登美彦
「嫌味は自虐しながら言え」
この作家の文体は圧倒的に嫌味である。細かい描写一つ一つに名前をつけるだけでなく生年月日までつけてものすっごい特別で高級なものに仕上げようという意思があるからだ。そういう描写は大概上から見下ろされているように読者は感じてしまうだろうが、この作品はそういった嫌味な描写を自虐を300倍上乗せして作り上げようとしている。
つまりは全力で格好つけながら全て絡まわらせようとしている作品なのである。こうなってくると嫌味は吹き飛び読者はむしろ相手をさげすむような印象まで受けるようになる。「上手そうな事言ってるけどお前頭おかしいじゃん」結果として嫌われない存在になる腹の黒さ。
何より格好よくいれないでいる主人公に共感できる世の中の「情けなくもかっこつける男」がほっておくはずがない大ヒット。
世の人間はエゴをエゴとして自分を見せびらかすために使うが、彼の場合はエゴをネタに組み込んでむしろ楽しませているのである。そしてそれゆえに自己顕示はきっちりとりながら大衆受けをしている。
世界観こそが自分の指標の最上級
上田君のユニットを手伝ったおかげで大切なものを知る事が出来たと思う。
それはあくまで自分が本当に作りたいもの、自分自身を知るということ。
俺は結構自信家で「才能がない」とは思った事ほとんどないと思う。
でも「認められる」という面においては相当な恐怖感を持っている。
基本というものは全くといっていいほど守っていないし、コミュニケーションにおいても相当な変態的な方向に向いてしまっている。だから面白いものを作る事以上に面白いものを作れる環境ばかりを追い求めてきた。
もちろんそれにより得たものは大きいしそれはポップとアートのバランスを計る上で重要なものであったりするわけだが、そんなものを作るために生きているわけではない事だけは確かである。
あくまで自分が作りたいものの範囲を明確にしなければならない。
そうでなければ自分の作りたいものがわからなくなる。
自分にとって作りたいものは絶対スタイリッシュな非日常じゃないと嫌だ。そこに強烈なテーマが入るか、伏線に次ぐ伏線が張り巡らされるかはわからないが、とにかくスタイリッシュな非日常じゃないと嫌なのだ。
それだけは守って作品を作ろう。
古藤の優先順位
①世界観
②テーマ OR 構成
③ネタ OR 会話
一作目の舞台は世界観はスタイリッシュ。扱うテーマは自分が持っているものなので格好悪い人の内面。
二作目の映画は世界観はスタイリッシュ。扱うテーマは現代的な問題。
三作目の舞台はルールがスタイリッシュで展開が複雑に絡む構成。
四作目の舞台は世界観は非日常。扱うテーマは相変わらず格好悪い人の内面。
つまりは「普通」が途方もなく嫌いなのであります。
ナンバーワンになれたけどオンリーワンになれなかった女
今日、新宿で本を買った後エスカレーターで降りたら友人に出くわした。隣には彼女が。
してもいないカチューシャがうっすら見えそうなぐらい綺麗に上げられた前髪。おでこの下に寄りいっそう目立つ目。何もしていない「普通の俺」にすら驚いているみたいだ。その目がチャームポイントと言わんばかりに少し厚めにアイシャドーがぬられている。
可愛い。
でもそれが今どきの女の子としての可愛さ。その選択は彼らしいと言えば彼らしいけど彼らしくないといえば彼らしくない。
・・・
僕は彼の元カノを良く知っている。どのぐらい知っているのかというと普段から「娘」と呼び先日は一緒に登山に行ってきたぐらいだ。そんな娘は漫画大好きで半分腐女子だけど顔は整ったいわゆるオタクなアイドル。
彼は一年半前娘と付き合っていたのだが別れ、別れた翌日今の彼女と付き合った。こういうと明らかに彼に問題があるように見えがちだが、彼女との方がうちの娘とよりも一緒にいたいと思ったわけで負けた娘にやはり原因がある のだ。
娘は楽しい子だ。でもその子自体は楽しいけど、その子と恋人として一緒にいる事が楽しいわけではない。 ナンバーワンよりオンリーワンとはよくいったものだ。恋人対象としてモテる女は付き合えば楽しいと思える相手。
オンリーワンに負けたナンバーワンの話を書いてみるのも悪くない。
It's a Wonderful Life (邦題:素晴らしき哉、人生!) / ★10
おそらく映画史上最も手本にすべき作品の一つ。
①ファンタジー面
天使が現われ魔法をかける展開は過去に存在したのかどうかはわからないが、のちにこのような展開を世の中に溢れかえらせるきっかけを作ったのはこの作品であることは間違いない。「展開がベタ」というよりこの作品の展開を真似た作品が世に溢れているのだ。
②テーマ面
一見この話は天使がいなくても成立する。最後死にかけたところで周囲の仲間達に救われるという展開そのものは変わらない。しかし天使が存在しなければこの作品は歴史に残らなかった。何故なら、結局は勧善懲悪の物語になるだけで、自分が幸せを勝ち取るだけの物語になる。大切なのは天使が存在する事により「人を幸せにした自分は幸せ者」というテーマがより明確になることだ。たとえ自分が悲惨になろうが「幸せ」だと実感できることが大切なのである。
そう、この作品が圧倒的な評価を得ているのは善悪を超越した世界共通の事実「人を幸せにする事こそが最も幸せになれるための手段」を実践しているからなのである。最後のお金を寄付してもらえて一件落着の展開はそのおまけである。もちろんそのおまけはテーマを倍増させる効果を持つ最強のおまけではあるが。
③展開面
あまりにも平凡にくっつくジョージとメアリーだが、その平凡さがより新鮮に映った。この平凡というのは「人があこがれる平凡」である。本当の平凡とドラマの平凡は違う。ドラマの平凡はあくまでも人が「こうなったらな」と願うその表れなのだ。最近のドラマなどが複雑化して見失っているものは間違いなくここにあると思う。
・・・脚本構成
まずスタートで天使が出てくる。これがなければ急に天使が現われる事実に対する観客が腑に落ちないので重要な要素である。
そして次に主人公ジョージの素晴らしい人生が綴られる。このあたりはありきたりであり展開としては億劫に感じる人間もいたかもしれない。しかし、ここは貧しくて平凡な人生を見せる事が何よりものちにつながる伏線となるので仕方ないと言えば仕方がない。あくまでも平凡な人生に見せときながらのちにジョージのいない世界が出てきた時に「平凡な人生がいかに素晴らしいか」をひきたてるための伏線なのだ。
でもその長さに比べてそういう風にだるく思った人間も少ないのではないかと思う。というのも、この作品がどこに向かうのかは冒頭の天使の発言やジョージの子供の祈りにより読めるので、観客はその展開に物語が進んでいる事(子供がいる家庭を築いたり)を認識できるからだ。
リアリズムの宿 /★8
「リアリティは実体験との照らし合わせ」
この作品の魅力を大まかに。
①気まずい二人のやりとりのリアリティ。
②様々な理不尽な出来事が起こるも二人が気まずいのでつっこまない面白さ。
③それらがラストの二人の打ち解けに収束されるところ。
①
これら全てがリアリティによって表現されている。
それゆえに観客もリアリティを意識して作品を見るべきである。
リアリティを意識して作品を見るとはどういうことか。
自分の現実と重ねて作品を見るという事である。
そんなに仲良くない人と一緒に旅をする状態の時の心情をちゃんと背負ってみるべきなのである。
過去の自己体験を投影させて見ることがすなわちリアリティなのである。
②
「笑わせよう」と観客に向けたわざとらしさが少ない。それはあくまで出くわすシュールな状況に対してつっこめないでいる登場人物を見て笑うネタばかりだからである。そしてさらにそれだけでなく登場人物たちが自ら①の事情によりシュールな状況を生み出したりもする。
③
最後にこれがなければこの作品自体の価値が圧倒的に低くなる。なぜならそれがなければ圧倒的に作品として見にくくなるのである。
起 顔見知り程度の二人がきまずい。もう一人が来るまで待つことに。
承 もう一人が来るまでなんとか過ごそうとする。
その間で変な出来事が多々起きる。
転 「ツイン」で全ての変な出来事に噴き出し仲良くなる。
結 21歳と言っていた女が女子高生だったというオチ。
総合して作品としての完成度は高い。やりとり一つ一つの精度も筋も適度にとれている。
あとは観客が映画に求めているものの差、狙いがわざとらしすぎないがゆえの気づかない可能性だ。
その気づきをより意識して見れる分、二度見たら二度目の方が面白い。
こういう作品ってある意味大衆向けの作品より見る側が重要だったりするんだよな。
ドグラ・マグラ 上 / 夢野久作 ★7
「これを読む者は、一度は精神に異常をきたす」
このキャッチコピーとあえて混乱させる様な構成との評判ではあるが、正直これほど読みやすい本はない。
というのも、この本に出てくる「祭文」や「胎児の夢」や「脳髄論」などはそのページに来る前の段階として結論を定義されている内容の反復にすぎないからである。
いや、その反復に色んな具体を入れててしかもその論自体がぶっ飛んでるから読みにくいと反論したくなるかもしれないし実際にたぶん読みにくいのはそうなのだと思う。
でも自分はそれがあまりにすんなりと入った。そう、この本はぶっ飛んだ発想とその発想の根拠を固まるためにひたすら具体を提示する僕の頭脳と非常に似通っているのである。
「世界観が気持ち悪い」という読者が多いが自分の中でそれをあまりに受け入れやすいのは「異常な設定とそこに入り込む哲学思想、それもあまりに露骨な出現させ方」を自分が思う世界観に近いものであるのからなのかもしれない。
つまりは「僕と話す者は、一度は精神に異常をきたす」
人から「頭の中はどうなってるんですか?」と言われたりするが自分としては至って普通。たぶん「ドグラ・マグラ」も慶応大学文学部仏文学専攻の大先輩である夢野久作もそうなんだと思う。
砂の女 / 安部公房 ★8
蟻地獄のように一度出たら出られない砂の家。そこには自由を持たない女がいた。外の世界から偶然砂の家に入りこんだ男はその女と交わりながらも不自由さ・理不尽さから脱出を試みるが。
「外の世界と自分の妄想こそが蟻地獄」
シチュエーションとしては蟻地獄のような砂漠に縛られているのだが、実際には外の世界に縛られている主人公。というのも、砂の家での世界を不自由に思うのは「外の世界」を知っているからで、それを知らない女は一見過酷な生活にも何の不自由も感じないのだ。当然なのだから。それが最も顕著に現われるのはP211女の「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人んことなんか、どうだって!」という台詞。そして溜水装置を手に入れた男は「他人」を全て客観的に見据えることになる。
すんごい。極限状態のシチュエーションは実はその外の世界に縛れる男を意味していたとはラストのラストまで気づかなかった。考えてみればあまりにあからさまな表現なのに。それはおそらく序盤からの男の価値観と同様な価値観を自分は正しいと考え、疑問を抱かなかったからなのだろう。
すさまじい。この物語のラストが現実世界における正しい生き方なのかと聞かれたら決してイエスとはいえないんだけれど、でもそれに疑問を抱かずにイエスと言っていられるのがある意味で人間の幸せな生き方なのかもしれない。その生き方も客観的に見たら幸せとは言いがたいものなのかもしれないけれど、だから何?って思えば無敵なのだ。ある意味正しいけどある意味間違っているのは、きっとそれは人間は社会的な生き物だからなのだろう。
・・・
そして女の魅力もこの作品の中での重要な存在であるに違いない。いや、別に女が素晴らしく魅力的なキャラクターに描かれているわけではない。おそらく女が魅力的なのは「男と女が一緒に生活している」という図式があるからなのだ。そこには性欲も生活も含めて人間の普遍的な「幸せとされるもの」が存在している。
人間において全ての生活を肯定するものは昔から「夫婦が愛し合っている生活」である。この間もたまたま見たテレビで芸能人が貧しいながらも夫婦が愛し合っている姿を見て「幸せな生活」と言っていた。ある意味で世界中の人間が陥っている蟻地獄である。読者は「男女が一緒に暮らしていく生活こそが幸せ」という価値観の蟻地獄に縛られているから、女を魅力的に思えるのだ。