大仁と言えば、前述した「大仁ボウル」の存在を認識したのは、2018(平成30)年のゴールデンウイーク。
 この時は、長男(当時小学6年生)と「電車の旅」として、御殿場線から沼津・三島を経て伊豆箱根鉄道駿豆線を往復する、という途上だった。

 

 大仁駅を出発し、修善寺に向かっていた普通列車の窓から、進行右側を眺めていたら、狩野川の対岸にある「ボウリングのピン」が屋上に立っている建物が目に留まった。


 その前年の秋から、筆者が「(持病の『大腸憩室炎』再発による食事制限からくる空腹を紛らわそうとやってみた)ボウリングの『投げ放題』から『深み』にハマっていった」ボウリングを本格的に開始しており、つい「こんな所にボウリング場が……」と反応してしまったのだった。
 これはいつか行かなければ、と期してはいたのだが、その後の新型コロナウイルス感染症の影響もあって延び延びになっていたのだ。

 予めウェブサイトなどでも(大会などの貸切とかがないかも含めて)確認し、現在でも営業していると思っていたのだが、先刻立ち寄った「ココレーン三島店」のスタッフから「だいぶ前にやめちゃってますよ」と告げられたのだ。


 しかし、折角ここまで来たのだから、と「跡地」だけでも確認しておこう、ということになったのだった。
 あの時は、長男もたまに筆者のボウリング場通いについて来ることはあったし、今はなき「湘南ボウル」の「親子ダブルス大会」にも参加したりもしていたが、まだ6Lbs(ポンド)のハウスボール(正確には、ハウスボールと同じポリエステル製のボールに、通常よりも小さめの指穴を左投げ用にコンベンショナル・グリップでドリルした「専用」の「なんちゃってマイボール(ドリル代・税込2千円)」ではあった)を投げていた頃だ。

 ちなみに、どうして「そんなもの」を作ったのかと言うと、ボウリング場に置いてある6Lbsのハウスボールの数はそんなに多くなく、学校が休みの週末などに行くと「品切れ」してしまっていることも少なくなかったためである。
 また、当時の長男はかなり小柄だったため、指も細く、手に合うボールが殆どなかったこともあった。更に、同じボックスに子連れが重なると、折角探して来た「手に合うボール」を勝手に使われたり、挙句の果てに勝手に片付けられたりすることもあったので、2千円なら、と思い切って作ったものだ。

 また、国道沿いにあるファミリーレストランの「ココス」に立ち寄った記憶がある。
 長女と長男が、まだ保育園か小学校の低学年だった頃に、ここを通っている。長女と長男の誕生月である3月だったので、その「ココス大仁店」で「バースデー特典」を貰い、記念写真を撮ってもらった記憶もある。
 「最近、あちこちのココスが閉店しているからなぁ……」と言いながら走っていたら、まだ「健在」だったが、立ち寄るまではしなかった。
 朝方に買ったおにぎりやサンドウィッチは「朝食」相当ではあったが、長男も「昼は食べなくても大丈夫」だと言う。宿の夕食が「恐らく多いだろう」という経験則から、そこまでの食事は控えめにしておこう、という思いもあるようだ。

 このように、長男も含めて何度となくこの辺りに来てはいることになるのだが、近辺で泊まった記憶がない。
 ほとんどの場合、下田も含めた東伊豆側に泊まっていて、大仁を通ったとしてもそのまま国道414号などで「天城越え」していたのではないか、と思われる。
 長男達が生まれる前に、XYLと2001年2月に戸田(へだ)で泊まった記憶(と記録も)はあるのだが、それ以外に西伊豆側で宿泊した記憶がない。その一方で、土肥や堂ヶ島の記憶はあるし、から、何度となく来てはいる筈なのだが。
 郵便局めぐり「100円テーリング」の記録だけ見てみても、戸田での宿泊記録がある2001年2月だけではなく、1996年7月や2003年12月にも記録されている。そこから紐解くと、1996年は沼津に泊まってから伊豆半島を反時計回りに周回してそのまま帰宅した可能性が高い。2003年は飛び石連休の「谷間」だったため、前泊・後泊地の見当が付けられないのだが、前泊していたとすると、もしかしたら西伊豆側のどこかだった可能性はある(土肥辺りが怪しいと思うのだが確信はなかった。ただし、本稿を書き進めるうちに、記憶が蘇ってきて土肥だったことがほぼ確実になる)。
 いずれにしても、全て20年以上前のことなので、郵便局の記憶は多少あるものの、宿泊地については明確に憶えていないのが実情だ。

 話が逸れてしまったが、大仁の中心街を抜けて、狩野川大橋を渡る。
 この狩野川が、この辺りでは伊豆の国市と伊豆市の「境界」になっているのだが、件の「大仁ボウル」(があった)辺りだけ、伊豆の国市になっていて、伊豆市域に「食い込んだ」形になっている。


 果たして、以前に見た「建物」はそのまま残っていた。

 


 しかし、やはり「ボウリング場」はそこになく、屋上に立っていた「ピン」もなくなっていた。


 施設内に入ると、既にレーンなどは跡形もなく、別のアミューズメント施設になってはいたが、受付のカウンタらしきものなどは、まさに「ボウリング場のそれ」そのものだった。確かに「面影」は残っている。

 あの時、長男は(筆者ほどの)ボウリングに対する興味がなかったかも知れない。
 往路で筆者が「あっ!」と反応した時には、すぐに後方へと流れて行ってしまい、はっきりとは視認できなかったかも、とも思う。しかし、復路では(東海道線へ直通する)特急「踊り子」で通る際に「再確認」もしていたから、そこに「ボウリング場」があったことは朧気ながら憶えてはいたようだ。

 今では、筆者よりもアベレージも高くなっており、新型コロナウイルス感染症の影響さえなければ、もう少し早く訪問できていたかも知れない。
 いや、そもそも「大仁ボウル」がなくなっていなかったかも知れない。
 ボウリング場が「廃業」する原因の多くは、施設の、というよりも建物の老朽化が主因である。現在でも業態を変えながら「大仁ファンパーク」として継続していることを考えれば、建物の老朽化の問題ではなかろう。レーンやピンセッターなどの耐用年数という面はあるかも知れないが、ここはシンセティックレーンだった筈で、ウッドレーンに較べれば耐用年数は長いし、メンテナンスも容易で、そこまで古くはなかっただろうと思われる。

 調べてみた結果、2022年8月にボウリング場としての営業を終えていたらしく、1年半前、ということになる。
 ここで投げていた人達が「継続」しようと思えば、「移転」先は、先程訪問した「ジョイランドボウルみしま」か「ココレーン三島店」になるだろうが、後で読んだネット上の記事などによると、活動していたサークルが解散したりなど、これを機にやめてしまう人も少なくないのでは、と推察される。

 ボウリング場がなければボウリングはできない。
 当然のことではある。
 しかし、かつては全国に3千箇所以上と言われたボウリング場も、今や7百ちょっと、という現状になってしまった。
 都道府県単位で見ると、2軒しかボウリング場のない県(高知県)まである。例えば、高知県の南西部、足摺岬のある土佐清水市や隣の宿毛市などの辺りの人が、ボウリングをしようと思うと、高知市や愛媛県の大洲市か八幡浜市まで出なければならない。最早、日帰りすることすら難しい距離である。
 そう言えば、先日、愛媛県新居浜市の高校生が「新居浜にラウンドワンを」と誘致活動をしたことがニュースになった。ラウンドワンという括りが、即「イコール・ボウリング」という訳ではないだろうが、主要なコンテンツであることは間違いない。実際にニュース映像には、廊下に「ピン」のようなものを立てている様子も流れ、残念ながら「月刊少年マガジン」での連載が打ち切りに終わってしまった「トキワボウルの女神様(作:八神ひろき氏)」にも「高校の廊下にペットボトルを10本立て、バスケットボールを転がして倒す」という描写があったことを思い出した。

 

 

 多くの人が経験したことがあり、ほとんどの人が知っているであろうスポーツでありながら、ここまで衰退してしまったのは勿体ない。高齢になっても継続できるスポーツでもあり、実際に80歳以上でも続けている人は少なくないし、そういう人は「腰も曲がっていない」のだ。体力や健康を維持するという面からも、もっと推奨されていいのではなかろうか(スコア計算が少々複雑なことも、認知症予防にはいいのではないかと思っている)。