なぜ、変態な絵を描くのか?? | 心のまま生きる♪宇宙堂かみこの『幸せの全体魔法』

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同人作家
宇宙堂かみこの公式ブログです。

※今回のブログ記事は、一部生理的嫌悪感を覚えるようなグロテスクな表現を伴います。

 

苦手な方は、読まれませぬよう。

よろしくお願いします(´・ω・`)

 

 

 

 

 

 

…と、すこし前置きがおどろおどろしい感じですが

 

 

 

ワシが創作というモノにどんな意味をもたせているか?という個人的な感想というか想いをまとめたブログになります。

 

 

 

 

 

 

 

ワシは過激な絵💕💕(Twitterやpixivなどを見てくださってる方はご存知と思います)を描くのを道楽にしています。

 

 

 

 

 

今のところメインジャンルは美少女孕ませ、出産、堕胎モノなど。

 

 

 

 

 

わりかしニッチなジャンルであると自覚していますが、このへんの絵を描くことになったキッカケは、「考えて描いてる」というよりは「描かずにいられなくて描いてる」と言ったほうが近いです。

 

 

 

 

 

意外に思われるかもしれませんが、ワシはかつては自分の思った事やら考えやらを他人にお話するのが大の苦手でした。

 

 

 

 

自分の考えを知られるのが恥ずかしかったし、賛成してもらえるとも思わなかったので、聞かれてもダンマリしていたら

教育相談所では「自閉症」を疑われてしまった程です。

 

 

 

 

 

もちろん、悩みごとや困りごとがあってもなかなか人に相談できないタチでした。

 

(このへんは親子関係が影響していますかね)

 

 

 

 

 

 

なので、アスペルガー症候群という診断は、あながち間違っていないんじゃないかと。(`・ω・´)

 

 

 

 

で、そんな私ですが、創作の中では感情を発散できたのです。

 

 

創作の主題は自分ではない架空のキャラクター。

 

 

キャラクターが感じることも、言い放つセリフも

現実の私とは関係のないフィクション。

 

 

 

だから安全に、なんでも感じられる。

 

 

 

 

感情を抑圧して不感症気味になっていたワシにとって

創作は自由に安全に、自分の感情を発散して感じられる場だったんですね。

 

 

 

 

 

それがなければここまで生きられなかったというくらいに。

 

 

 

 

 

今、ワシは堕胎モノジャンルが大好きで、自分でも描いていますけれども、

 

創作の場は、現実を痛みや損失(リスク)から守り

なおかつ心を回復させてくれるものでもあるなと思うのです。

 

 

 

 

 

たぶんワシは、堕胎のイラストや小説を描いていなかったとしたら

 

現実で更にあと何回か堕胎をしていたと思うんです。

 

 

 

 

どういうことかっていうとですね

 

 

 

 

堕胎は私にとって最高に快楽的な体験だったのです。

 

 

(↑この表現だけだと、非常に誤解をまねく表現だということは自覚しているので、ここまで読み進めた方は、どうかどうかもう少しだけお付きあいくださいませ…)

 

 

 

 

 

まず、物理的(身体的)にも快楽刺激があった。

 

 

堕胎手術は、前日のうちに子宮口を広げるために細い棒状の器具を子宮口に入れるんですけど

 

その棒状の器具を入れるのが、めちゃくちゃ気持ちが良い。

 

たぶん、痛いと感じる方も居ると思うんですけどね。

 

 

私は大声で矯声をあげてしまって、処置をしてくださった看護婦さんは、やや気まずそうでした。

 

 

手術中は全身麻酔ですが私は意識が残っていたので、手術中の音やら景色やらは感じ取れたのですが、さすがに手術本番はうっすら痛いだけでしたね。

 

麻酔で痛覚は鈍麻していたので、なんとなく痛い、くらいでしたが。

 

 

 

 

でも、何よりも一番特筆すべきだったのは

 

精神的な快楽(開放感)

 

 

 

堕胎は、一部宗教では「悪行」であると伝えられていますよね。

 

ただ、現代の日本は無宗教・無神論者の方がかなり多いので

 

母体保護法に乗っ取った堕胎手術を批判する人は殆ど居ないかと思います。

 

悪でも善でもない。

ただ少し、悲しい出来事。

 

 

そんな解釈が一般的かと思います。

 

 

 

 

私の家庭も、無宗教・無神論でしたので

 

もちろん堕胎を悪行とは思いませんでしたが、

 

当時の私は完璧なまでの「善性」を自分に求めていたので

 

世界の中の、一部の宗教の教徒たちが「悪」と定義することを、自分がした。という事実が、

 

それまでの積み重ねてきた努力と我満を水疱に帰してくれたようで

 

 

 

 

なんていうんですかね

 

 

こう…コップに並々と注がれた水を「一滴も溢すな!!」と見張られながら、手足をぷるぷる震わせて長い廊下を歩んできたような人生だったのが…

 

 

こう、意図せず、誰か第三者が私のコップの水を「バシャ!!」とこぼしてくれたような、そんな開放感だったのです。

 

 

 

「もう私は頑張らなくていい、もう頑張らなくていい

がんばらなくてよくなった。終わった」

 

 

 

そう感じたものです。

 

 

それは私に強いエクスタシーをもたらしたんですね。

 

 

精神的なエクスタシーです。

 

 

 

ずっとずっと、プルプル緊張して、張り詰めて

完璧な「善人」であろうとした私が

 

 

 

積み上げようとした「善」の裏では

 

実はもうどうしようもない。完璧には程遠い。

なんなら周りの一般的な人間より弱く脆い、母からの暴言にも耐えきれず、実はいまにでも母を殺してしまいそうなほど精神がグズグズに澱んでいる…それでも人を救う善人に憧れている自分のヘタクソな手で作った防壁を指でチョンと突かれて、バラバラと一気にドミノのように崩れていって、崩れることをもうどうしようも止められない。

 

 

そういう快感。エクスタシーがあったんです。

 

 

 

 

その頃…私は自分の無価値観へのカウンターとして

「世の為人の為」になることを自分に課していました。

 

 

 

高校の時なんかは、休み時間に学校の事務室前でひとりで

「世界平和のためのお祈り」をしていたんですね。

 

 

もちろん無宗教ですから、お祈りの作法は独自のものです。

 

 

そうすると、担任の先生が通りかかって、私に声をかけるんですね。

 

「どうしましたか?かみこさん」と。

 

私はその先生のことは信頼していたので

「お祈りをしていたんです」

と正直に伝えました。

 

 

普通、生徒からそんなことを言われたらちょっと、引いてしまう人もいるでしょうけど、その先生は笑わずに居てくれました。

 

 

私が真面目であることは評価してくれて

でも、真面目すぎると疲れてしまうかもしれないから…と少し休むよう助言もくれまして。

 

 

 

だから、私はずっと、その高校に通い続けられたんだろうと思いますね。

 

 

 

当然、クラスメイトや友人には

お祈りをしてるなんて一言もいいませんでした。

 

 

 

友人たちに言ったら、リアクションに困るでしょうからね(笑)

 

 

 

「たくさんの、善いことをしたい」

 

その一心で、ボランティア活動をしたり、介護の勉強をしたり

どうすれば多くの人の支えになれるのか?そんなことを考えていました。

 

 

 

 

 

それは逆にいえば

 

「自分には価値がない」

 

 

という想いの裏返しで、善いことをしなければ、自分の命は許されない…そんな潜在的な心があったように思います。

 

 

 

 

 

そういう私だったからこそ、

 

堕胎の快楽は、病みつきになるほど刺激的で、

 

 

すべての緊張が解放されるあのエクスタシーをもう一度味わいたいと思うほどに、

 

 

それにしても、そんなことは健康にも倫理的にも

よろしいとは言い難いので何とか別の手段に置き換えたいと思考も働き、

 

 

 

 

その末、感情を発散する場として

以前から好きだった創作で、私は堕胎のイラストをたくさん描くことになったのです。

 

 

 

 

創作でも、疑似的にですが、あの開放感を味わうことは出来ました。

 

 

そしてきっと、それは皆にとって「よいこと」

だと思うのです。

 

 

 

現実で、私の子供が死ぬのは誰も観たくないでしょう。

 

産婦人科のお医者さま達も、堕胎手術は望んでされている方は少ないでしょう。

(健康上の理由など、やむを得ない場合もあると思います)

 

 

 

 

刺激を求める心を、抑えることは現実的では無かったのです。

 

 

 

私には、あの時の開放感が

強い「喜び」として記憶されている。

 

 

 

 

ただ、現実でそれを繰り返す気は無いのです。

 

 

 

 

創作は、書き手も読み手も

安全な場所で、感情をリアルに動かすことができる

疑似的な世界です。

 

 

 

 

 

物語によっては現実とリンクするような知見が含まれていたりして、それもまた旨味のひとつかと思います。

 

 

 

 

人は退屈なままには生きられないものですが、

だからといって、過度な刺激を現実世界に求めると、ちょっとハードなのです。

 

 

 

そういうとき、空想・想像・創作の世界は

とっても「都合がいい」のです。

 

 

 

 

いつでもそばにいてくれます。

 

いつでも安心できる環境で、自分の心や感情を投影することができます。

 

 

自分を知るキッカケにもなります。

 

たまにストレス発散でもいい。

 

創作は、人類にとって、都合がいい。

 

 

 

 

私が創作を好んで道楽にしている理由は、たぶんそこにあって

今も昔も、創作があったから生きてるんだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、アダルトチルドレン的な人が

 

「役に立つ人間になりたい」

とか

「完璧になりたい」

とか

「善人でありたい」

と願うのは、結構よくある仕組みらしいです。

 

 

私もアダルトチルドレン系のブログをいくつか読んで

自分と同じような心の動きをする人は本当に多いのだ!ということを知りました。

 

 

 

 

 

 

↑こちらの心理ブログとか。

アダルトチルドレン的な人とそうでない人の感じ方の違いについて触れられてて「あ~なるほど、こういう感じなんだ」

と思いました。

 

なかなか興味深かったです。

 

 

 

 

 

という訳で…今回は私がなぜ、創作が好きなのか?

変態な絵を描くのか?ということについてまとめてみたブログでした。

 

 

実は今でも自分の意見や考えを人に言うのは、わりと苦手です(笑)

 

 

創作だったら、書けるし言えるんですけどね。

 

 

あと、

低用量ピルの服薬も試しに再開してみましたが、

体調なんかも様子見ながら、個人日誌でもつけていこうかと思います。

 

 

前回飲んでた時期は

特にプラスの効果(肌ツヤが良くなる)等は実感できなかったのですが、今回は果たして…??

 

 

 


ドン・キホーテのベビーチーズ

 

美味しかったです(`・ω・´)✨

 

 

<★宇宙堂かみこ★>