イエス時代のキリスト教は原始キリスト教と言われていますが、キリストご自身は自分が広めた宗教を「キリスト教」と呼ばれるのは果たしてどう思っているんでしょうかね。
クリスチャンという名称は1世紀にアンティオキアで、他宗教の人がキリストの追随者を侮蔑を込めて「クリスチャン(=キリスト者)」と呼んだということに由来しています。エホバの証人を「エホビアン」と呼ぶ元エホバの証人がいますが、それが侮蔑の意味を含めていることからもわかりますね。
で、論理的に考えれば、侮蔑的に呼ばれたキリスト者が集まる宗教をキリスト教と呼ぶのであれば、キリスト教という名も侮蔑の意味が本来あったことになります。復活したキリストは天で自分の広めた宗教がそう呼ばれることについて満足していたとは思えません。
エホバの証人は三位一体の教理ゆえにキリストを崇拝対象とは見ていません。ところが自分たちのことを正しくはエホバのクリスチャン証人なのだと主張します。また以前は新約聖書をクリスチャンギリシャ語聖書と呼んでいました。
統治体は神の知恵などないバカですので、真のクリスチャンとか言っていますが、どうもクリスチャンという名称にこだわっているようですね。じゃ、キリストはクリスチャンですか?油注がれたと自称する統治体成員は、キリストと同等になるわけですよね。でもキリストはクリスチャンではないですね。でも自分たちはクリスチャンだと。
レットのように贖いの犠牲の効力も理解できないバカとか、マークサンダーソンのように知性のない人間もいます。「統治体は終わりの日がいつ来るかを知っています。いつ来るかわからないということを知っているのです。」ってバカでしょ?
まあ私が言いたいのはエホバの証人はキリスト教でもその異端でもないということであり、またそう主張するのも間違っているということです。
しかしユダヤ教という名称もなんか変ですね。ユダヤ人の宗教だからユダヤ教?だったら日本人の宗教だったら日本教になるわけ?もしそうなら日本人でなければその宗教を奉じる資格はないような印象を与えますね。ユダヤ教というのもユダヤ人に限定された宗教ならば、排他性強すぎますね。