信仰心とはもっと強くて深いものであるはず | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

私は進化論というものがあまりにも欠点だらけの似非科学であり、それが信じられなくなり、そうなると人間がどうやって今ここにいるのかを考えると創造しか答えはないと確信し、エホバの証人になりました。

 

創造者の存在そのものはその時以来揺らいでいません。東大寺五重塔心柱のごとくしっかりしたものであり、五重塔が決して倒壊しなかったのと同様にこの信仰が崩れることは死ぬまでないでしょう。

 

そして天地創造を信じれば、当然眼に入る景色、耳に聞く自然の音色、かぐわしき花の芳香、口にするおいしい食事、そしてそれを満喫することができる身体の各器官と、中枢をなしている驚異的頭脳のすばらしさを堪能できるのです。

 

エホバの証人で長老や男子であるならば、食事前に祈りをします。特権を失ったからと言ってエホバカとアホバとかいうような、篤信とは対極にいる人間はいったい何に感謝していたのでしょうか。与えられた特権的立場のことだけ感謝していたのでしょうか。信仰とはそういうレベルのものじゃないです。

 

ブログで自分が食した料理の写真を載せる人がいます。おいしそうな料理を満喫しているようです。そういう人も現役時代に仲間の前で代表して祈っていたのではないでしょうか。

 

食材を創造した創造者、料理ができる能力を持つ人間(人間だけが火を扱うことができます)、味わう舌、味覚をさらに高める嗅覚、そして消化し、それが健康な身体を維持できる各臓器などなど、食事前の感謝は私たちが生きることができる備えに対する創造者への感謝ではなかったのでしょうか。

 

犬や猫や鳥などペットを飼っている人もいますが、そのペットのおかげで生活の慰めを感じる場合もあるでしょう。他の動物をかわいいと思ってペットにするのは人間だけです。愛玩動物を創造してくれた創造者にエホバの証人は感謝しています。人間がそういう思いを持つのは進化論では説明できません。進化論がいかに穴だらけの作り話かは少し考えればわかることです。

 

そういう日々の感謝は、自分が特権を失ったからと言って消滅するほど儚いものだったのでしょうか。その言葉は偽りの言葉だったのでしょうか。

 

他の人の不完全さを見たからと言って、信仰をなくすなど組織批判のための口実にしかすぎず、結局は創造者への感謝も偽りのものだったということになるのです。私もいろんな人の不完全さを目にしてきました。でも私はそういう不完全な人間のせいで、創造者への信仰が薄れるような真似はしたくなかったですね。自分の信仰がそういうくだらない人間のために潰されることを許しませんでした。そもそもナチスドイツの迫害のもとでもエホバの証人は耐えました。ナチスの迫害に比べれば、くだらない人間の存在など取るに足らないものでした。

 

自分が石で家を建てたなら、マッチ一本で消滅するようなことはないのです。パウロは家を建てる材料で燃えやすい材料で家を建てることと、燃えない材料で家を建てることの違いを対比させ、しっかりした信仰とは後者のようなものであるべきだと論じました。特権的立場にいる人に躓いて信仰をなくすなどというのは、燃えやすい材料で家を建てていたことを自分で告白しているのです。

 

そういう人たちが敬虔な信仰を持ちエホバの証人の居場所をなくそうとするムーブメントをいくら起こそうとしても感謝の念の欠如した人間の不満だととらえられても仕方ないのです。

 

別にハルマゲドンが来なくても、特権を失っても、病の床に伏しても、そして戦場のただなかにいても、敬虔な信仰を持つ人たちは自然の恵みと美しさを決して忘れることはないのです。

 

信仰とはそういうものです。

 

仏教徒であろうがイスラム教徒であろうが旧統一教会信徒であろうが、神仏の前で首(こうべ)を垂れる人たちをバカにし侮辱する人には絶対に理解できないでしょう。

 

そういった人たちをも相手にする時、道理を逸した方法でいくら戦いを挑んでもその戦いに敗れるのです。その傲慢な態度は彼らには相手にされません。