私がエホバの証人になったころは20代の信者が非常に多かったのです。組織としては若い組織でした。
彼らの少なからず人たちは、親の反対を押し切ってエホバの証人になりました。中には大学を中退した人もいました。親に嘱望されながらも、その親の希望を打ち砕いた結果、親は反対していました。
30代の主婦も多かったのですが、やはり多くの主婦は夫からの反対を押し切りました。
組織が野外奉仕中心のものであったり、週に三日も家を空けるので夫としては妻が奪われたと思うのです。
ところがこういう反対が生じると組織は必ずこう言いました。「サタンからの攻撃が激しくなりましたね。」
そうすると信者は親や配偶者をサタンだとみなしますので、敵とみなすのです。張魯スティーブンレットのように「生まれたばかりの赤ちゃんでも神の敵」とみなすような感情が、親や配偶者に対しても持つのです。
いったん相手を敵とみなすとなれば聞く耳そのものがなくなるのです。
ブログでは親が自分を忌避することで怒りや憤りを感じている2世がいますが、昔は子供が親に対し、感情を遮断するような風潮でした。
親が反対者でなくても、ものみの塔の倫理基準のそぐわない親を馬鹿にする感情をも組織は育てました。
またものみの塔組織では巡回監督は子供がいてはなりません。そこで多くの上昇志向のある男性信者は結婚しても子供をつくらない選択をしました。勿論すべての人が巡回監督になれるわけではないので特権を得るためには必死に目立って組織をたたえる風潮が蔓延したのです。
子育てをしたこともない長老が、子供を持つ親に対してパワハラまがいの指導をしていたのですが、それは我が子に対する自然の情愛を持つ経験をしていないからなのです。
本来ならば仲の良かった親子や夫婦に亀裂を生じさせ、親は配偶者に対する自然の情愛を持つことを途絶えさせたのです。
今親と疎遠になった宗教2世も多いでしょう、もし親が危篤だという知らせを誰かから知らされたとしたら涙が出ますか?親の介護は大変な負担ですが、それでも病院などで見かける親の車いすを押している人は、そこまで介護することで親を支え、その結果親に対する愛情を深める場合もあるのですが、そういう自然の情愛を持てなくさせたのが組織の忌避なのです。
子供にしても学校での友人関係を制限されることで、友情を培うこともできなくなっています。昔と比べて同じ信者の子供も激減しているので会衆内での友情も培うことができなくなってしまいました。
学校行事への不参加も、子供にしてみれば参加したい行事もあるのに、それを制限することで自分の心を殺してきました。それは学校の先生に対する尊敬の気持ちという自然の情愛を持てなくさせたのです。今はどうか知りませんが、昔は学校の定期試験と巡回大会が重なると大会出席を優先させる親もいました。学校に通うエホバの証人の子供向けのブロシュアはそういう認識を培うために発行されたようなものです。
とにかく自分たちの宗教活動を妨げるあらゆるものをすべてサタンのせいだと信者に洗脳させることで自然の情愛を持てなくさせているのです。これはスティーブンレットの背教者への憎悪感情をむき出しにする、吐き気を催すほどの汚くて醜い表情と言葉からもいまだにそういう感情をも育てようとしていることがわかります。
公共の福祉制度や今は過去とは比べ物にならないほど配慮の行き届いたものになっていますが、そういうものに対する感謝という自然の情愛を持てなくさせています。それは「世」だからです。敵である「世」はあくまでも利用するためのものでしかないのです。そういう心情があるので生活保護を受けながら開拓奉仕をする高齢者が出てくるのです。「世」のお返しをしようとは思っていません。お金があるなら組織に寄付をします。
親が死んでもさして悲しくないと思う1世もいるのです。前にも書きましたがそういう巡回もいたのです。
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信者でない親がなくなっても「復活するからまた会えます。」という人もいます。しかし親が子供の証言を受けても拒否するならその親は復活するのでしょうか。「エホバの証人しか助からない。だから伝道するのです。」と思っているのに、親がエホバの証人でない親が復活するという思考は矛盾しています。というのもエホバの証人はハルマゲドンで死んだ人は復活しないと信じているからです。
「去る者日々に疎し」と言います。たとえ親でも疎遠になると愛情は薄れていくのです。
そもそも広報がものみの塔広報が平気でうそを吐けるのも、支部委員5人衆がそれで傷つく人が出てきてもかまわないという自然の情愛を持たないサイコパスだからです。サイコパスの集団統治体に相談するからそうなるのです。