どうして江戸幕府は腑分け(人体解剖)を禁止したのだろうか。 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

札幌の首切り殺人事件。その異様さに対して専門家を寄せ集め勝手な憶測を祭りのように取り上げるメディア。中でもミヤネ屋と宮根誠司はメディアの膿のような存在です。

 

事件そのものに関して、私はとやかく言うつもりはありませんが、「首を切り落とす」という行為が衝撃的であるがゆえにそのおぞましさに世間は注目します。

 

ただ数百年前の日本では、この首を切るというのは日常茶飯事でした。戦国時代は名のある相手武将を打ち取ると、その首を掻っ切って、長い髷(まげ)を腰に結わえて、それを二つも三つもぶら下げながら戦っていました。いわゆる忠臣蔵でも、本懐を遂げた赤穂四十七士は吉良上野介の首を白い布にくるんで槍の穂先にくくって高々と掲げて凱旋行進をしました。

 

源頼朝は、塩漬けになった義経の首を見て「悪は終わった」と言ったとか言わないとか。関が原に行くと家康が敵将の首実検をした地があります。石田三成の首は六条河原にさらされました。江戸時代では凶悪犯は打首獄門の刑を宣告されると獄門台に五寸釘で留められました。

 

考えてみればおぞましいのですが、庶民はそれを見物していたのです。

 

さてそこでふと思ったのですが、日本の医学の進歩は江戸時代に解体新書が登場して飛躍的に向上しましたが、この解体新書はいわば西洋の解剖学の書で、ごく一部の医師しか見れませんでした。そこで医師を志す者はこの書が手に入らないので、自分で解剖つまり腑分けをしたいと願ったのですが、それは幕府によって禁止されました。もし腑分けをしたならば厳罰に処せられ、おぞましいものとみなされたのですが…

 

なぜ日本で人体解剖が発達しなかったのでしょうか。というのは日本の戦いは鋭利な刀を用いて切りあいます。相手を一刀両断でもしようものなら、その時点で五臓六腑は見れるのです。織田信長は浅井家を滅ぼしたときに、長政とその重鎮の頭部を切り降ろし、頭蓋骨をきれいに洗った後に漆を塗って、勝利の宴の際にそこに酒を入れて回し飲みしたとか言います。これもまたおぞましいのですが、ただ脳というものがどういうものかを知ることはできたはずです。

 

戦場ではそこかしこに内臓を晒した遺体があり、医師でなくても人間の身体の中身を足軽でも知ることができたわけで、そのこと自体を当時は日常的に見れたはずです。ですから、きちんとそれを学術的動機で行うのであれば、腑分けをおぞましいと思う感覚がなぜあったのか疑問です。

 

肉を食べる習慣がなかったので、動物の内臓を調べることはなかったとはいえ、刀で斬殺されたのは動物よりも人間のほうが多かったのに、なぜなんだろう。腑分けの禁止が、日本の医学の発展を妨げたことは明白です。