「分裂」をもたらすこと自体が「背教」では断じてない:キリストの到来はユダヤ教に分裂をもたらした。 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

ものみの塔の出版物で「背教」に関して次のような記事があります。

 

エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々 第4章「大規模な背教が生じる」

 

敵対者サタンはまさに最初から,会衆外の者たちからの迫害を加えることによってエホバのクリスチャン証人の証言を沈黙させようとしました。…迫害はまずユダヤ人から,そして後には異邦ローマ帝国からもたらされました。初期クリスチャンはあらゆる種類の反対を首尾よく忍耐しました。…しかし,敵対者はあきらめませんでした。外部の者たちからの圧力によって沈黙させることができないのであれば,内部から腐敗させればよいのではないでしょうか。クリスチャン会衆は,まだ揺籃期にあるうちに,その存在自体が内部の敵すなわち背教によって脅かされました。 …使徒ペテロも(西暦64年ごろ)内部的な腐敗を次のように予告し,そのような背教者たちの手口についても説明しました。「あなた方の間に偽教師が現われる(でしょう)。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込(む)のです。……彼らは強欲にもまやかしの言葉であなた方を利用するでしょう」。…会衆内から起こるとはいえ,偽教師たちは敵陣にいるスパイや裏切り者のように,ひそかな,または人目を欺く方法で,腐敗をもたらす自分たちの見解を浸透させるのです。…

イエスの死後20年もたたないころ,使徒パウロは,分裂をもたらし,人々を真の信仰からそらせようとするサタンの試みが『すでに作用している』ことを指摘しました。早くも西暦49年に,諸会衆に送られた手紙の中で統治体は,「わたしたちの中から行ったある人たちが,わたしたちが何の指示も与えなかったにもかかわらず,いろいろなことを言ってあなた方を煩わせ,あなた方の魂をかく乱しようとしていることを聞きました」と書きました。ですから,自分たちの反対意見を唱える人たちが会衆内にいたのです。この場合,その反対意見が,異邦人のクリスチャンは割礼を受けてモーセの律法を守り行なうべきかという論争に関するものであったことは明らかです。

西暦1世紀,時たつうちに,分裂を生じさせる考えが脱疽のように広がりました。西暦51年ごろまでには,テサロニケのある者たちは,主イエスの「臨在」が差し迫っているという間違った予言をしていました。西暦55年ごろまでに,コリントのある者たちは死人の復活に関するキリスト教の明確な教えを退けていました。西暦65年ごろには,復活とは生きているクリスチャンが経験する象徴的なものであり,それはすでに起きた,と言う者たちもいました。

 

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上記の記事の思考操作にお気づきでしょうか。ものみの塔は「背教」の悪影響について述べていますが、そもそも教理そのものへの言及はほとんど皆無で、あくまでも「背教」のもたらす分裂という影響についてしか述べていません。「分裂・分派」という言葉をちりばめて「背教だ」と説得しようと必死です。

 

しかし分裂・分派をもたらすことが「背教」では断じてないのです。

 

キリストの例がそれを証明しています。当時のユダヤ教体制下にあってキリストはまさに青天の霹靂とも思える異端児でした。でもその「異端児」は人々に幸福をもたらしたのです。それは山上の垂訓ののちの人々の反応から見ればわかります。

 

「イエスがこれらの言葉を語り終えると,群衆はその教え方に大変驚いていた。 律法学者たちのようにではなく,権威を授かった人のように教えていたからである。」(マタイ7:28,29)

 

キリストの言葉は道理にかなったものであるがゆえに、人々は感銘を受けたのです。山上の垂訓は、決して「奇妙に思える指示」ではなく、だからこそ人々は納得をしました。「納得をする」ということは、「神からの権威を授かった人」であるべき必要不可欠な要素なのです。

 

しかしそういうキリストが1世紀にユダヤ人社会においては大いなる分裂をもたらしました。キリストもそれを見越したうえで次のように述べたのです。

 

「私が地上に平和をもたらすために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣をもたらすために来ました。分裂を生じさせるために来たのです。息子が父に,娘が母に,嫁がしゅうとめに逆らいます。 自分の家の人たちが敵になるのです。」(マタイ10:34-36)

 

子のキリストの言葉は「キリストが家庭を破壊する」と解釈してはなりません。あくまでも真理と虚偽との間には妥協がなく、相対立するものであり、それは時に家族観においても生じうるということを言いたかったのです。タルムードなどで人々を苦しみと不幸をもたらしていたユダヤ人社会において、キリストの言葉は真理であったが故に、旧態依然とした考えに固執する親とでさえ分裂が生じるのです。

 

では「キリストは背教者であるが故に邪悪なものだ」と言えますか?統治体はそういう論理を使っているのです。統治体は1世紀のユダヤ教体制における宗教指導者の態度を示しています。

 

生まれたばかりの赤ちゃんを「神の敵」だといったスティーブンレットは、贖いの犠牲というものを認識しなかったキリスト前の宗教指導者と同じ考えなのです。この男は今「キリストを杭につけた」のです。

 

反ユダヤ思想は、ユダヤ教がキリストの贖いの犠牲を受け入れず、キリストを処刑したがゆえに「神の敵」となったが故に生じたものなのです。レットの精神を見ているとよくわかりますね。

 

したがって、ただ分裂をもたらすということが即背教になるわけではないのです。統治体の歪んだ論理で私たちは思考を操作されることに警戒しなければなりません。大切なのは「道理にかなったものであるかどうか」なのです。