ものみの塔日本支部支部委員5人衆は果たして敬虔な信仰を持っていると言えるでしょうか。それを判断する基準はやはり聖書にあるでしょう。パウロはテサロニケの人たちに書き送った書簡では「すべてのことを確かめよ」と書き送りました。
既に統治体の「たとえ奇妙に思っても統治体の指示に従え」という言葉は、このパウロの言葉に逆らうものです。これでは「確かめよう」がないからです。確かめるためには聖書の言葉を道理に従って解釈し、それは私たちの良心と照らし合わせてなければなりません。
エホバの証人批判者の中には統治体の不敬虔な態度と聖書の道理の区別がつかず、統治体の言葉が聖書の言葉であるかのように反応し、そしてエホバを侮辱する頭の悪い人がいます。こういう人は全否定思考であり、言うならば戦争の際に相手国の民間人も感情的になって殺傷する人と同じですが、実際の戦争を見ていてそのような行為が平気で行われているのを見るとそういう全否定思考の人が多いのです。感情的になると場合分けができないのです。たぶん数学は苦手だったことでしょう。
一方全否定と全肯定は裏返しですが、日本支部支部委員5人衆は統治体を思慮深い奴隷級だと思い込み、全肯定しているがゆえに、スティーブンレットのようにキリストの犠牲の価値である「罪を洗い清める」の価値を正しく認識せず、生まれた赤ちゃんを「神の敵だ」と頭の悪さ全開で笑顔で話す人間でも、その尻をなめて「バラの香りがする」というみじめな奴隷になり下がりました。
これは行為の意味や意義、そして目的を理解しようとしないからそうなるのです。レットの言葉がキリストの犠牲の価値を無にしているという理屈を東大卒とはいえ気づかないのです。そしてその誤った推論に基づいて発せられる指示は到底非聖書的であるにもかかわらず、その行為に従うことが忠節だと思い込んでいるのです。彼らには矜持などみじんもないのです。
それが日本支部支部委員5人衆の姿です。彼らこそ「あなたの名によって予言したではないですか」と言ってキリストにすがるものの「お前みたいな人間はしらない。神の御意志を行うものが救われる」と一蹴される級です。統治体みたいなものを崇拝するからそうなるのです。支部委員5人衆は「すべてのことを確かめる」ことを怠っているのです。それは自分たちも悪いことをしているからです。5人の共同責任です。