私は常々、エホバの証人の宗教2世問題が生じた理由として、バプテスマを受けていない子供にバプテスマを受けた人たちに要求されることを要求したことだと言っています。誕生日を祝わないとか、祝祭日の参加しないとか、選挙を拒否するとか多種多様なものがあります。
学校行事の様々な制約を児童虐待と言われても、なぜものみの塔日本支部はそれを強制していない、個人の決定だという言葉で片付けようとしているかがお判りでしょうか。
それは子供たちの多くが既にバプテスマを受けている場合が多く、またバプテスマを目指そうとしている場合もあるからです。
しかしながらまだ十分に成長できていないで親への依存度が高い子供にとって、偏った情報に基づいた決定が生涯にわたる足かせになるようなものであってはならないはずです。
この点は豪州王立委員会で質問者も指摘しました。(青字は質問者、黒字はジャクソンのこたえ、赤字は私が新しく付け加えたり強調したい部分です。)
Q:ジャクソンさん、あなたは13歳でバプテスマを受けましたね。
A:その通りです。
Q:実際多くのエホバの証人はそれよりもずっと若い時にバプテスマを受けていますね。
A:私が出会った人の中には私よりも若い時にバプテスマを受けた人がいますね。
Q:あなたはその年齢が、誰かが人生の残りに影響を与えるだけの年齢で成熟していると考えますか?
A:はい、そういう場合もあります。明らかにある人はその決定をすることができないでしょうが、私が13歳でその決定をすることができたかどうかという質問ですが、私は11歳でバプテスマを受け、その後の全人生をその決定に難く付き従った人々と働いています。
ジャクソンは自分や自分の見聞きした経験に基づいて正当性と普遍性を主張していますが、「決定をできないある人」の事情については触れていません。こういう問題は普遍化できるものではないのですが、ジャクソンは論理的思考が著しく欠けています。
Q:それは組織を離れれば必ず知人のすべてを後に残さなければならないからかもしれません。
A:どんなこともあり得ますね。
(信条に対する疑問を持っても組織にとどまらざるを得ない事情をジャクソンは認めました。つまり隠れ離脱者がいる事情を認めたのです。)
Q:そこで、若い時にバプテスマを受け、青年になって、現実的に自分の信仰は他のどこかにあると思い、何かほかの宗教を選びたいと思う人の例を取り上げましょう。その人はその時まだ私たちが確認した厳しい選択をすることに直面するでしょう。
A:その通りです。
ジャクソンは「厳しい選択」であることを認めました。この点で組織の取り決めが愛があるというのは有名無実化します。そういう事情を認めているのです。にもかかわらずこの後組織の方針が変わることはありませんでした。背教者狩りを日本支部はしています。
Q:それは、私があなたに示していることですが、組織の方針と行いが宗教の選択の自由に対するエホバの証人の信念と対立するという根拠に基づいているのですが?
A:私たちはそのようには理解していませんが、あなたはあなたの意見を述べる権利があります。
(ジャクソンがそのように理解していない理由が不明です。よさらにジャクソンの言葉を借りれば、離脱したいという人たちはその意見を述べる権利があります。権利があると言いながら、権利を認めないのは矛盾しています。ジャクソンは自分が何を言っているのか理解しているのでしょうか。)
Q:私はまたそれが愛と同情心に富む神という考えとも対立しているということも示しています。
A:確かに、そうなると聖書の述べることと調和していないでしょう。なぜならエホバは時々、ご自身の民を追放しそして戻ってこさせることによって訓練されるからです。そしてエホバは人々の全体として最終的な益を信じられる方であり、時々それは何らかの懲らしめを含んでいるのです。
(聖書の述べることと調和していないと言いながら、エホバが民を罰することを述べています。またエホバを信じなくなった人たちにこの論理は当てはまりません。ジャクソンは離れた人は戻ってきたいと思っていると考えているのですが、離れた責任が自分たちにあるので戻りたくないと考えているとは思っていません。この点日本支部も同じです。)
Q:人々にその選択をさせることによってあなた方の組織は多くの点で、束縛する組織になっていることを認めますか。
A:それは全く認めません。
(認めていないなら忌避の取り決めはなくすべきでしょうが、日本支部広報の回答によると、忌避は組織内の人を守るためですので、離れたいと思っている人の束縛は継続するのです。)
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ジャクソンは論理的思考及び人間の感情というものを理解できないので話が食い違うのです。質問者のほうがはるかに優れた頭脳と論理的思考を持ち、人間の感情を理解できるのがわかります。
若年バプテスマが「本人の意思によるものだ」という前提がこのような分からず屋を生み出すのです。
「バプテスマは本人の意思によるもので、意思確認もしている」という言い訳をするために日本支部は若年バプテスマを推し進めたのです。それは「おとなしい子供たち」を作ることで統治体に褒められたかったからなのです。悪知恵は後々の弁解も可能にするために働いたのです。