乳井健司はなぜ東大理学部化学科へ進んだのだろうか。(青字追記) | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

高等教育否定組織にものみの塔日本支部調整者(事実上の代表者=公人)乳井健司は、昭和62年東大理学部広報によると化学科だったようです。

 

昭和62年卒ですから、入学時は昭和58年つまり1983年です。組織はこの時期はとにかく体罰全盛時代でした。子供たちの叫び声がどの大会でも静寂を破って鳴り響いていたのです。大学進学をする人たちへの風当たりは大層厳しいものでした。

 

ある方のブログによれば、乳井と同じ会衆だったそうでした。大学へ進んだ理由は、父親が非信者でその要望があったからだそうです。ただその父親がどの程度まで大学進学を望んだかわかりません。非常に強い要望かそれとも単なる希望かわかりません。後者なら乳井自身が大学進学を希望し、父親をダシに使った可能性も有り得ます。

 

いずれにせよそれでは大学へ進んだ大義はあるようです。

 

しかしここでまた疑問が出てきます。

 

「なぜ東大、しかも理学部化学科へ進んだのでしょうか。」

 

卒業後は開拓奉仕を行ったということです。開拓奉仕をいつ行うかは個人の決定ですし、ある人は在学中に行い、ある人は卒業してから行う場合もあります。でも最初から「開拓奉仕を行うつもりだった」のであれば、東大理学部化学科を選択する理由がわかりません。

 

というのも開拓奉仕ではほとんど役に立たない分野だからです。そのまま大学に残るか、あるいは企業の研究分野に進むか、あるいは教師になるか、あるいはサリンを作るか。まあ最後の選択肢はないでしょうが、宣教面で理学部化学科の知識は何の役にも立たないのです。

 

開拓奉仕をするつもりならば、教師は無理でも塾講師などにはなれるでしょうが、でもそれは組織の「高給を得るために」進学することについての否定的な見方とは真逆です。東大理学部化学科なら家庭教師でも時給5000円はくだらないでしょう。そうすると開拓奉仕は楽に行なえますね。でも組織はそれを否定するのです。乳井は自分が東大理学部化学科へ進んだ理由を、高等教育否定の組織にあって、その立場上明確に述べる必要があり、組織のそういった考え方を助長するようなプログラムを扱うことは二心がある証拠ですので、語る言葉に真実性はありません。

 

また大学へ行っても支部の調整者になる乳井は組織から離れることはなかったのですから、組織が大学教育を否定する理由の一つである「大学へ行くと信仰を失う」というのがほとんど無意味になります。それとも何でしょうか。「普通は信仰を失うが、私は特別なのでそういうことはない」と乳井は自分を高めていたのでしょうか。もしそうならもうその年齢で、自分より年上の親のことを「残念な親」だと平気でないがしろにするような精神態度を持っていたのでしょうか。

 

なぜ東大でなければならなかったのでしょうか。地方の国立大ではだめだったのでしょうか、二流大学では乳井のプライドが許さなかったのでしょうか。乳井は大学名で人を測る人なのでしょうか。

 

一般のエホバの証人の子弟はほとんど無学で無教養です。せいぜい出版物の偏った知識を持っているにすぎません。乳井はそういう人たちを実は心の中で睥睨しているのでしょうか。だから体罰教育をした親を残念な親だと平気で言えるのでしょうか。

 

乳井の親友だったという人は「健ちゃんはとてもいいやつだ」と証言します。なるほど、その人にとってはそういう人だったかもしれません。その感情を否定するつもりはありません。でも本当に「良い人」なら広報の虚偽の回答を容認し、忌避で心が砕かれた人さらに追い詰めて悪者にし、いつまでたっても自分たちを正当化するでしょうか。真に「良い人」ならば、自らが危地に陥ることになっても宗教指導者の間で証言し続けたキリストに倣うでしょう。こうなると乳井を「良い人」という人の判断基準が当てになるかならないかがわかります。