私がエホバの証人になった当時は、輸血受諾は排斥案件でした。当時は棄教扱いはしませんでした。
しかし1985年の鈴木大君死亡事件の際に、ものみの塔日本支部は「輸血を拒否するかどうかは良心の問題だ」という公式見解をテレビや新聞で述べました。世間の批判をかわすためにこの時すでに嘘を吐きました。
さてもしここで輸血拒否が良心の問題であるならば、当然戒律違反にはなりませんので排斥にする根拠はなくなります。
そこでものみの塔は輸血受託を「棄教」という新設カテゴリーを設け、そこに組み入れることで排斥と同じ完全忌避処分にすることにしたのです。事実上は戒律違反による排斥です。メディアの「戒律ですか」の質問をごまかすためのものでした。それが知恵だと思っているところが絶望的に愚かなのです。
排斥ならば戒律違反が原因ですが、棄教ならば本人の自発的なものであるということで通ると思ったのです。
ところが分画輸血許容を打ち出した時点で、ものみの塔は輸血を禁止する聖書的根拠がないことを認めたのです。まだこれがわからない人もいるようですが、エホバの証人ならだれでもわかることですが、例えば性の不道徳は淫行扱いされます。では性器の挿入があれば淫行成立、なければ不成立になるのでしょうか。1世紀にはコンドームなどありませんでした。ではコンドームを装着しなければ淫行にはならないと誰かが言えばそうなるのでしょうか。
分画輸血は間違いなく輸血です。それを許容したのです。したがって輸血拒否の聖書的根拠はありません。
言葉を巧みに用いることにしか、「上からの知恵」を用いないのは何とももったいないですね。それで世間をごまかせると思っているだなんて、世間知らず、社会不適合者の烙印は押されて当然です。