想像を絶する体罰を受けた子供に対し、しばしば親や組織は「あの時はそれでよかった。」と言います。過去の体罰以上にセカンド体罰ともいえるこの言葉は、今はもう成人した子供たちをさらに打ちのめします。
一体何が良かったのでしょうか。
あの時はそれが間違っていたのです。
それを判断するのは今現在成人した子供たちが過去の体罰で自尊心を失ってしまった場合があるということです。
一体何が良かったのですか。
組織は拡大したことですか。その時はそうかもしれませんが、おかげで今は組織は縮小しています。それで「あの時はそれでよかった」と言えるのでしょうか。
沖縄で高校生が警察官に警棒で殴打され失明する事件が起きました。
なるほど警察側にも言い分はあるでしょう。しかし現実は若者から視力を奪ったのです。これは明らかに度を越した対応です。勿論警察官も「偶然」その様な不測の事態を招いたと言い意図したものではなかったといいはるでしょうが、それが通用するでしょうか。『あの時はあれでよかった』という言い訳が通用しますか。
「体罰がなかった」かのように否定したものみの塔日本支部広報とその責任を負う調整者乳井健司は、このような対応をした警察以上の責任放棄をしました。実にひどい話です。
親にしてみてもどうして「あの時はあれでよかった。」と言えるのでしょうか。過剰な体罰で自尊心を失いいつまでたっても自分を責めることが癖になった子供たちは、人生を歩む「視力」を奪われたも同然なのです。
その様な被害者を、ウソをついて足蹴にし、セカンド体罰によって生み出した、宗教2世乳井健司の責任は極めて重いものです。ウクライナで多くの犠牲者を出し、ブチャの惨劇をウクライナの自作自演だと唱え、ロシアを守ろうとするプーチンと同様、「体罰を受けたというのは背教者の自作自演だ」と言わんばかりに、嘘までついてそれを否定し、さらにいま多くの犠牲者を出してまでも組織を守ろうとする日本支部は、聖書を扱うには全く不適切な宗教指導者たちです。
ブチャの惨劇を、ロシアが「あの時はあれでよかった」と言えば、乳井健司は「それもそうだな」とでも思いますか。あなたは一体なにを調整するのですか。神と、組織のせいで傷ついた人たちとの関係を調整する気はないのですか。統治体と日本支部の良好な関係を調整したいだけなのでしょうか。
『あの時はそれが間違っていたのです。』