エホバの証人が、「世の人」の不幸話で盛り上がるのとまたく同じ精神構造。だから覚醒なんぞしていないのです。
他の人の不幸をまるで喜ぶように優越感に浸るのです。でもそれは劣等感の裏返しでもあるのです。エホバの証人の中にも簡素で質素な生活をしているがゆえに、裕福な世の人への劣等感を持つ人がいるのと同じなのです。
「いえ、私はそういう不幸に陥らないように、記事を書いているのです」というかもしれませんが、それはエホバの証人が「世の人が不幸なので伝道するのです。」というのと同じなのです。立場が変わっただけで思考の仕方は同じです。
エホバの証人が「世の人は不幸でなければならない。」と考えているように、そういう人は「エホバの証人は不幸でなければならない。」と考えています。
エホバの証人が「世の人の目は死んでいる。」というのと同様に、そういう人たちは「エホバの証人の目は死んでいる。」と言います。
エホバの証人が「世の人は自分が幸福だと思い込もうとしている。」というのと同様に、そういう人たちは「エホバの証人は自分が幸福だと思い込もうとしている。」と考えています。エホバの証人が幸福であるということを認めようと決してしません。
エホバの証人が世の人の不幸話を喜んでいるさまを見て嫌悪感を感じている割には、自分が嫌悪されているのが理解できていません。エホバの証人が世の人に嫌悪されていてもその理由を考えず仲間内で盛り上がるのと同様、自分たちの仲間内での慰め合いで、さも自分が偉くなったかのように錯覚しているのです。
現役エホバの証人が1世2世の差などそれほど意識しないように、元エホバの証人でも批判の塊の人間同士は1世2世の差など意識しないのです。
これが全肯定&全否定の考え方です。
いつでも相手の幸福を認めようとしないのです。そういう人たちなのです。私を「1世だから」と言って毛嫌いする人は、実は問題が1世2世ではないことに気が付いていないだけの話です。だから決して変わらないのです。
自分の醜さに気が付いていないのはある意味統治体と同じレベルです。