ちょっと何言ってるのかわからないひろゆき―死刑制度を理解していない&ローマ12:15の真実 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

 

 

まず前半部分ですが、「死刑は政治家が決めた規則を守れない人は殺します」というのは国によって異なるんじゃないですかね。中国はその色合いは強いですが、そもそも日本ではどうでしょうか。凶悪犯罪は、殺人や強盗強姦などを指しますが、殺人をすれば死刑になるというのは政治家が決めた規則なのでしょうか。日本で死刑制度が継続しているのは国民感情が大きいですね。それと死刑に対して「殺す」という言葉を使うのであれば、外科手術を描写する際に人を刺したり、切り刻んだり、内臓を鋭利な刃物でえぐり取るというような文言を使うのでしょうか。死刑に対して「国が殺す」という言葉を使う人は結構いますが、こういう言葉を使う人は胡散臭く、それこそ綺麗事を言っているように聞こえます。

 

また死刑判決は政治家がするのではなく政治家から独立した司法が行うことです。また死刑が人の命の優劣を決めるというのも何言ってるのかわかりませんね。あれは優劣を決めるものでしょうか。むしろ死刑は、人の優劣を決め「こんな奴は殺していいのだ」と思う人間が、相手の命を奪ったことへの償いをさせるものです。本来ならば被害者が仇討ちをすればいいのですが、仇討ちはその反復連鎖が生じるので国家が被害者の代行をしているということを全く理解していません。

 

後半の部分はこれだけならわかりませんでしたが、小澤征悦の言葉に反応したようです。後半の部分は理解できます。

 

 

「ホームレスの方とかいうことではなくて、すでに。命に優劣をつけてしまっていること。人間だけでなく動物もそうだし、命は平等であるということの一番基本的な部分を彼はどこかで見失ってしまったんじゃないかなと。」

 

この人の意見も人間と動物との間の命が平等だと言っていますね。まあDaiGoが人間よりネコのほうが大事だと言って言ったのでこのように言ったのでしょうが、それでも人間と動物の命が平等だというのもちょっとおかしいですね。例えば誰かの大事にしているペットを殺した場合、問われる罪は器物損壊です。殺犬罪や殺ネコ罪には問われません。

 

どうも小澤もひろゆきも優劣という言葉を使っているのでこの議論はおかしな方向に行くのです。

 

優劣というのは客観的判断であり、一方人にしても動物にしても当人にとって重要かそうでないかという極めて主観的なものです。

 

自分の愛する人や動物の命が、見知らぬ他人の命よりも重要なことは理解できます。たとえばAさんが、災害で命を失った見知らぬBさんのことを気の毒に思うことはあるにせよ、自分のペットが交通事故で死んだ方が悲しみに暮れるのは普通の感情です。自分にとってネコは重要な存在です。問題はBさんは死んでもいいとか、自分のネコの命よりも劣っているという感覚です。

 

他の人の感情を思いやるというのは自分にとって見知らぬBさんにも家族はいるでしょうし、その家族にとってBさんは重要な存在だということの認識を持つことです。ほとんどの人はそういう認識を持っているので、自分とは無関係な見知らぬ人が何らかの犯罪で不条理な死を遂げた時に、犯罪者に対する処罰感情が出てくるのです。被害者や遺族の悲しみに感情移入するというのはそういう事です。

 

これは悲しみのみならず喜びもまたそうです。五輪で金メダルを取った人の秘話を聴いて涙ぐむのもそういうところがあるのでしょう。

 

人の悲しみを理解できない人は人の喜びも理解できないのです。それこそロボットのようなもので、たぶんサイコパスというのはそういうロボットのようなものなのでしょう。

 

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)は私たちが人間性を持ち、それを保ち、その感性を培うよう教えるものです。聖書の言葉は深いものがありますね。

 

ひろゆきはホント大丈夫でしょうか。