「悪法もまた法なり」 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

(「記事の編集・削除」を遡るといくつか公開していないものがありますので、一応必要だと思われるものは公開します。まあ一日に数記事公開すると読む人も疲れると思っていましたので、これでもセーブしてたのですが、どんどん屁理屈を展開し、その屁理屈に同調していつまでたっても子供みたいなことを言う人も多く、これでは元エホバの証人たちが社会性を持たないままでいるようです。そこで社会人として大切なことか思われることは触れたいと思います。)

 

「悪法も法なり」という言葉があります。

「たとえ悪い法律であっても、法は法であるから、廃止されない限りは、守らなければならない。」(goo辞書)

 

https://mayonez.jp/topic/1020708

 

 

わかりやすく言うと、例えば学校の規則の中には理不尽なものもありますが、その学校にいたければその校則に従わなければなりません。もしその校則を変えたければ在学中にそのための抗議なり運動をしなければならないのです。

 

時々、道路の規制が変わるときがあります。例えば以前は右折が可能だった交差点で、右折事故が頻繁だとすれば、右折禁止になることがあります。これは実体験ですが、ある商業施設に入ろうと道路を右折しようとしたときに、警察官がいて呼び止められました。そして「ここは右折禁止なんですよ。」と言われました。そして警察官は交差点の標識を指さしました。確かに右折禁止でした。反則切符を切られました。右折禁止になった理由はわかりません。事故が多発したせいかもしれません。しかしドライバーとして交通標識は絶対に見落としてはならないものです。それを無視しての抗議は交通秩序は乱れます。ここで「以前、ここは右折可能でしたよ。」と抗議しても無駄です。「前から車は来てなかったし、安全確認して右折した。」「事故を起こすような無謀な運転はしていない」といくら述べても無駄です。交通標識が右折禁止となっているのであるならばそれに従うというのがドライバーの責任です。それで逆らい警察官に抵抗するなら、さらに罪を重ねのっぴきならない事態になります。ドライバーを生業としているのであるならばその認識は生活と関わりますので、普通の人以上に交通標識には注意を持って見ます。

 

「親密なメールのやり取りはデートだとみなす。」というのは巡回訪問中の長老の集まりでハッキリ言われたことです。長老であるならばそれは熟知しているはずです。プロのドライバーが交通標識に注意を払うのと同様、長老ならば協会の指針には注意を払う必要があります。おそらく親密なメールのやり取りがきっかけで深刻な事態が多発し、組織はそれに対する警鐘を鳴らしたのでしょう。そこで会衆の模範であるべき長老がそのようなことをすれば「違反切符」を切られるのは当然です。何を言いたいかと言いますと、「親密なメールのやり取りはデートだとみなす」という協会の指示が理不尽だと思いそれに対して、いくら文句を言っても、そのルールを協会が定めた以上、従うべきだということです。でなければ秩序が乱れます。勿論そのメールが事務的なものであるのにもかかわらず咎められるとすれば、それは抗議に値します。たとえば右折禁止の交差点でも、時間帯によれば許されることもあるからです。何度も言っているようにどういう内容のメールを相手に送ったのかを公開して自分の冤罪を訴えない限り、「違反の時間帯ではなかった」と主張することはできません。それで長老を逆恨みするのは、違反切符を切った警察官に逆らうようなものです。キップを切った警察官がどれほど高圧的であろうが、それで自分の違反を帳消しにすることはできません。自分の犯した違反は違反なのです。同様に自分の犯した行為を、相手長老の人格攻撃をすることで覆えるものではないのです。それこそ誹謗中傷しています。

 

すべてはメールのやり取りそのものではなく、メールの本文内容です。肝心要のそれを頑として公開しないのであるならば冤罪主張の根拠は脆弱です。その主張を信じている人は、メール内容をご存じなのでしょうか。それを知らないのに冤罪主張を鵜呑みにするのは軽率であると言われても仕方ないでしょう。メール内容を公開しないのは公開すると自分にとって不利になると思っていると解釈されても文句は言えません。

 

「完全忌避」が悪法であることは間違いありません。しかしそれに対して抗議するのはあくまでも自分がエホバの証人である、もしくはあったがゆえにできることです。もしバプテスマ無効請求が通り、「あなたは最初からエホバの証人でなかった。」と協会が認めるならば、抗議の権利までも放棄することになります。「悪法でも法」です。その改善を求めたければその秩序の中で権利行使をしなければなりません。

 

厳密に言うと「排斥や断絶」はバプテスマ無効ではなく、失効です。しかしながら「エホバの証人でなくなりました。」というのはいかにもバプテスマを無効にするような発表であり、それに伴って完全忌避が行なわれ、自分の人権は侵害されるのです。であれば行うべきことは論理的に言って「バプテスマ無効請求」ではなく、「バプテスマ無効取り消し請求」なのです。「バプテスマ失効取り消し請求」と言ってもいいでしょうね。実際信仰は失わないのに、背教者と決めつけられて排斥になっている人は多いのですからね。