池田小事件以来、全国の学校で不審者に対する警戒意識が高まり、その備えがなされてきました。それ以後も通学時における子供の安心を確保するために地域社会は力を注いできました。自衛のために防犯用品を持つ子もいます。スクールバスの普及もその一つですし、監督者も乗車させています。
安全のために万全の備えをしているつもりでも、決意をした人間の前では無力感が漂います。
「いったいどうすれば、防げるのか」
あらゆる犯罪に対し、たとえ成人でもこの問いに明確な答えはありません。
生活の中でより安全に暮らすためには、「知恵」が求められます。無謀なことをしない、慎重になるなどはその一つですが、それでも犯罪の被害者になることを絶対的に回避することは現実的に言ってできません。
さてそうなると人々の中には、人知を超えた存在、例えば「神」に縋ろうという人たちが出てきていたとしても不思議ではないのです。神を求める気持ちは、自らの生活の中で「絶対的保証」を得たいと願う人たちが反映しているものかもしれないのです。確かに聖書には数多くの知恵の言葉があります。でもその「知恵」だけでは絶対的保証にはならない。そこでその「知恵」の言葉の源とされる「神」を信じることで「絶対的保証」を得ようとするのかもしれません。
「どうすればいいのか。」に対する答えを「神の保護」に頼ろうとする気持ちに通じてくる場合もあるのです。
そうなると、様々な不幸な経験をした人や、それを見聞きした人たちが、幸福を求める切ない気持ちが根底にある場合もあるのです。
宗教に走る人に対して偏見を持つ人もいますが、宗教に心が向く人たちの心の哀しさを考慮するならば、いきり立って責めるのは無慈悲であるとすら思えます。