「頑張ってる」母親に感謝 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

コウノドリ第4話。今回はトーラックがテーマ。トーラックは過去に帝王切開で出産した人が、次の出産を自然分娩で産むことである。これが母子ともに非常にリスクを伴うことが説明されていた。物語は、長女を帝王切開で産んだ母親が、子育てにおいて苦闘し、わがままな長女を十分に愛せない状態になる。母親は、子供を愛せない理由が「自然分娩」による産みの苦しみを経験しないからだと思い込み、第二子を自然分娩で産む決意をする。医師たちにとってもこの選択は多大の負担を与えることになる決定だったが、母親の意向を最優先することになる。


出産に際しては、夜通しかかってもなかなか生まれない。その間中ずっと母親の苦しみ声がドアの外にまで聞こえる。それを不安げな様子をしながら一人でたたずむ長女の姿が印象的だ。一方父親は当初は無頓着な様子で出産の日にも当初は飲み会が気になってしようがないがずっと妻の苦しむ姿を見ているうちに事態の深刻さを認識するようになる。


実際にリスクが現実のものになろうとするときにでも母親は「頑張ります。まだ頑張ります。」と言って自然分娩を成し遂げようとする。医師たちは帝王切開をほのめかすが、母親はそれでも「頑張ろう」とする。緊迫の時間が流れる。


その時にベッドの横にいる長女が「お母さんはもう十分頑張ってる。」と言って母親の手を握りしめる。鈍感な父親も妻の「頑張り」を褒め、妻の働きを認める。父娘の説得で初めて母親は帝王切開に切り替える。赤ちゃんは無事生まれ、医師は「どのように生むのではなく、どのような思いを持って生むのかが大事ですね。」と優しく声をかける。 

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母親がどのような思いを持って生むかは、普段の家族の理解が大事なようだ。仕事と飲み会で妻の必要を顧みなかった夫は娘がどれほどわがままであるかを知らなかった。娘のわがままさと毎日闘う母親の姿を知らなかった。自分の都合を優先し、妻の相談に対して親身に耳を傾けようとはしなかった。そういった日常を過ごし、極度のストレスの下で、娘につらく当たっていく母親が娘を愛せない理由は「産みの苦しみ」を経験するかしないかではなかった。家族が自分の「頑張り」を認めてくれるかどうかだった。


現実的には実際どれほどの母親が「頑張ってるね」と評価されているのだろうか。出産も子育ても「女性として当たり前のこと」であるとみなされている。しかし私たちは男も女も皆例外なく母親から生まれている。キリストですらもそうである。そしてすべての命が生まれる数のおそらく90%以上は産みの苦しみを経験してきた。マリアもそうだったに違いない。それが最初の二親に対しての罰である以上たぶんそうだろうが、禁断の果実を食べるという行為で全女性にこの種の苦痛を味わわせるのはいささか無慈悲な気がしないでもない。しかし女性の腰骨の仕組みを考えると、もっと楽に出産できてもいいような気がするだけにそれもそうかなと思う部分はある。


 いずれにせよ、母親は頑張っているのである。それは感謝を受けるに値する。もっと評価されていいはずである。


JWの社会は男社会である。「女の頭(かしら)は男である。」という言葉が、時に男性信者を勘違いさせる。つまり「男は女より偉いんだ。」という認識だ。これが若い兄弟を生意気にさせる要因だ。恥ずかしながらわが身を振り替えってみるに、自分もそういう勘違いをしていたと思う。いわゆる頭の権威というものは、人間性の上下ではなく、組織運営における指示系統の一貫性を示しているだけで、秩序維持のために必要なものでしかない。いわば宴会の幹事のような存在だ。むしろ縁の下の力持ちになってこそ頭の権威を正しく行使できる。それを「男は女より偉い」と勘違いしてしまうのである。


複数の子供を抱える母親の頑張りはいくら評価してもしすぎることはない。もっと声をかけるべきだった。もっと励ますべきだった。子供たちが親の意のままにならない親がいたとしても、今で十分頑張っていると伝えるべきだった。そうしていたつもりだったが、十分ではなかったと思う。それで親が追い詰められ、あるいは子供に鞭をしていた親もいるかもしれない。


カルトにはまった親も、親なりに「頑張っていた」のである。それを評価してもらいたかったに違いない。方向が間違っていたとしても、頑張っていた動機は子供への愛情ゆえのものだったことはほとんどの場合確かだっただろう。愛情がなければ放置していたことだろう。出産のときに子供を見て産みの苦しみを忘れ。自分の生きている限り全力でわずか約3㎏の子供を守る決意をした親もいることだろう。そういう親の気持ちにまず感謝することが大事ではないかと思う。


今はもう親になった2世も多かろう。我が子を育てながら母親の思いを実感する人もいるだろう。その多くの母親は今現在子育てに本当に頑張っている様子がうかがえる。そういうご家族の平安を願っている。アンチJWであったとしてもである。


同様に自分の母親も「よく頑張ったんだね」と我が子から本当は言われたいはずだ。母親に自分を生んでくれた時の思いをよみがえらせることも大事なことだと思う。それが亀裂を修復する一助にあるいはなるかもしれない。もしそれが修復可能な関係であるならばの話である。無理は禁物だ。


 コウノドリは先週は無痛分娩、今週はトーラックが取り上げられた。いずれも「産みの苦しみを経験しなければ我が子に対する愛情は本物にはならない。」という世間一般の考えに一石を投じるものだった。しかしそういう考えでいかに多くの母親が苦しんでいるかがわかる。一方で「産みの親よりも育ての親」という言葉もある。親子の関係は決して「産みの苦しみ」の有無の問題だけではない。その後の親子で刻んだ「歴史」こそ重要だ。


芦田愛菜が大ブレークした「Mother」では、すでに小学生になった子供を我が子にするために「誘拐」した「母親」の愛情を描いていた。ドラマだからデフォルメされていたが、養子縁組をする多くの里親は「産みの苦しみ」を経験しなくても豊富な愛情を子供に注いでいる。昔の日本では「家名」を絶やさないようにするためにごく普通に養子縁組はあったのである。「マッサン」のモデルとなったニッカの創業者竹鶴氏も「花子とアン」のモデルとなった村岡花子氏も養子縁組で我が子を育てた。


幼いころの我が子の愛らしい振る舞いは親の愛情を培うはずだ。なぜ幼い子供はその声も、振る舞いも所作も発想も、書いている文字や、描いている絵がなぜこうも可愛いのか。子供を愛するように神が子供をそういうものであるように創られたとするなら、神の愛を感じる。もっとも人間に限らず子犬も子猫も鳥の雛も皆可愛いが、それをそれぞれの「親」が可愛いと思って「子育て」をしているかはわからない。しかし人間はそれの「世話をしたい」という気になるのも「地の管理」を任されるのに必要なことだとふと思う。私は聖書全肯定ではないとはいえ、時々聖書の言葉の一節に何か符合するものを感じる。


 閑話休題。


そういう母親に「頑張ってますね。」と声をかけたのは同じ立場にいた多くのJWの母親だろう。だから母親同士のきずなは強いのである。もう組織がどうの、長老がどうの、教理がどうのというカテゴリーではなく、そういう人とつながらせてもらったことに対する感謝の念があると思う。そういう親を「マイコンさん」と軽くあしらう不敬な態度はいくら何かを主張しても軽佻浮薄で、心の欠けたものとみなされるのである。人間として疑問符が付く。ブログでのつながりではなく、リアルでつながった親の人間関係を決して軽々しく見るべきではない。


可能ならば、親が生きているうちに「よく頑張ってくれたんだね。」という一言でもかけることができればと思う。死んでしまったらもう何も聞いてもらえないし、その頑張りは報われないまま母親は生涯を終えることになる。