正月の挨拶と「ありがとう」 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

今ではどうか知らないが、正月前に毎年「正月の挨拶にどうこたえるか」というプログラムが奉仕会であった。


要するに「あけましておめでとうございます。」というあいさつにどう応じるかということである。


「年が明けたからと言って、それがめでたいわけでもない。」という理屈からか、あるいは新年に何らかの崇拝意識を持つからかしれないがそういう考えがあった。


JWを辞めた人がこの言葉を使うようになったのを見ていまだ現役の人は眉を顰めるかもしれない。しかし前記事と同様この記事も現役の方に向けて書いていることを断わっておく。


まずどう応じるかということに関しては、そもそもその前に「言葉だけ」にあえて注目するならば私は組織に交わっていることから仕事納めの日には『よいお年を』は常に言ってきた。相手の幸福を願い「良い年を迎えてください。」という言葉は何ら間違っていないからだ。それゆえに正月の挨拶においては、「おめでとうございます。」という言葉こそ言わなかったが、頭を深く下げ「旧年中はお世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。」と言ってきた。これで何とか「ごまかせる」と思っていた。


しかしながらいま改めて思うに、本来「挨拶」というのは人間関係を円滑に進めるものだ。正月の挨拶は、誰もが「今年一年が良い年であってほしいと願う一年のけじめである。そしてその願いを相手に対して表明するのはクリスチャンとして間違っていない。12月23日に天皇陛下の「来年が良き年でありますように」というお言葉があり、そこに全く宗教色など感じなかった。


旧年中に不幸があったときにはとてもじゃないけど「めでたい」という気分になれない人にとっては年頭の挨拶を断わるフォロー制度がある。


それでも人は未来に希望を持つがゆえに「あけましておめでとうございます。」という。


もしその言葉にどうしても宗教色をつけたいというのであるならば、お尋ねする。


「ありがとうございます」という言葉をなぜ使うのか。


もともとこの言葉はめったにない事柄に対して「有り難い」という感謝の気持ちから出るもので、その「有り難きことは仏様のご加護による。」という宗教色が込められている。ではもうその言葉をエホバの証人は使ってはいけないということになるのだろうか。


「ありがとう」という言葉は人間関係を円滑にするという目的のものであり、その言葉を使わない人はその人間性が問われるのである。


朝には「おはようございます。」と言い、昼には「こんにちは」と言い、夜には「こんばんは」という。時期や時間に応じた挨拶を私たちはする。暦の上で年が改まったときに使うのが「あけましておめでとうございます。」である。それは人間関係を円滑にするものであり、したがってアガペー愛である。


そしてそれはいろいろあったにせよ何とか命を生きながらえて一年を過ごしたことへの感謝も含まれているのだ。


もしどうしても抵抗があるのであるならば、 「あけましておめでとうございます。」という言葉を創造者への感謝を込めて口にするのはどうだろうか。


組織を離れて3年。どうやら来年は、他者の幸福を願って、なんの抵抗もなくこの言葉を言えそうである。