クリスマスの精神 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「覚醒した。」という人たちのなかには、満を持したかのようにクリスマスを祝う人もいる。


JW時代には、「世」の多くの人が、クリスマスソングとともに楽しそうにしている姿を横目で羨ましそうに見ていたことだろう。


(そういえば、クリスマスソングと言えば結構名曲がある。なかでもJW倒壊・・・ではなくJR東海のCMで一躍有名になった山下達郎の「クリスマス・イブ」。この歌は強烈に印象に残っている。というのも昔タモリのボキャブラ天国というのがあった。そこで歌詞の一節だけを替え歌にするのだが、冒頭の「♪は夜更け過ぎに雪へ変わるだろう」を「♪は夜更け過ぎに雪絵と変わるだろう」と変え、男性が夜中に女性に姿を変える映像が流れ爆笑した記憶がある。)


ま、とにかく元JWが「覚醒の証拠」としてクリスマスを祝うのは珍しくない。


しかし日本人全体がどれほどクリスマスの意義というものを理解しているかどうか疑問に思う。


クリスマスを祝うとはどういうことか。イブにケーキを買って、イルミネーションが奇麗なところへ行って、サンタさんの格好をして、プレゼントの交換をし、華やかな時間を過ごせばそれで祝った気分になっている人も多かろう。とにかく「楽しい日」であるわけで、そこには娯楽と、ときには快楽を伴う。


何かと名目をつけて「楽しい時を過ごせればそれでよい。」と思っていて、別にそれはそれでよい。しかしながらクリスマス精神なるものを意識している人がどれほどいるだろう。


欧米におけるクリスマスというのは特別な意義を持つ。キリスト教国では新年よりもクリスマスのほうが大事だ。日本人にとってはお正月がクリスマスより重要なのだが英米では異なる。クリスマスのほうが重要なのだ。アメリカではこの時期に年間個人消費の約2割が費やされる。大消費時期なのである。


ではなぜ消費するのかというと、やはりプレゼントの交換があるのだが、このプレゼントというのはもちろん多くは親が子にするものである。しかしそこにあるのは、キリストの「与える精神」を親が身をもって示し、子はそこでキリストに感謝し、かつ「与える精神を学ぶ」というものだ。そこには自己犠牲の精神が伴う。貧しい家庭でも、親が子にプレゼントを与えるために余分に働き、手作りの靴下にリンゴ一つだけ入れたりする親もいる。子供が寝てからプレゼントを与えるというのは、子供がそのプレゼントが『親から』来るのではなく『神様から』来るという信仰を持たせるためのものだからだ。親は赤ん坊にさえ、例えばゴムボールを与えると言ったプレゼントをする。そこまで徹底している。


自己犠牲を伴うプレゼントというのを描いた短編小説で秀逸なものに、オーヘンリーの「賢者の贈り物」というものがある。貧しい若い夫婦がクリスマスに合わせ、相手を喜ばすために自分の一番大切なものを売って捧げるというものだ。夫は、美しい髪を持っている妻が髪をとかす櫛(くし)を買うために、大事にしていた時計を売る。妻は夫が大事にしている時計を夫がなくさないようにする、時計に付けるチェーンを買うために、美しい髪を切ってそれを売る。二人の買ったものは相手の役に立たなかった。ではこの二人のしたことは愚かな行為だったとだれが言えようか。キリストの誕生に際し、贈り物を携えた「東方の三人の賢者」に決して劣ることのない贈り物を二人は愛する相手にささげたというものだ。相手を喜ばせるために自分の最も大事なものをささげるという『自己犠牲』は賢いものがする行為だ、というものである。


ともすれば日本人のクリスマスというのは『神様が自分に対して愛を示されるとき』だと思い込んでいる風潮がある。プレゼントを与える日ではなく、プレゼントをもらう日だ期待している。ドクターXの最終回も、普段は宗教心を全く見せない守銭奴(アキラさん)が、教会へ行って、大事な人の難手術の成功を祈る。何とも手前勝手な話だが、なぜかクリスマスの時期にそういうシーンを織り込むことによって何らかの効果をもたらそうとしている。


しかし「クリスマスの精神」というものはそういうものではない。「受けるより与えるほうが幸福だ。」という精神である。それはキリストに見倣って、相手の福祉を気遣うという精神に他ならない。その日にキリストが生まれたかどうか、という教義的な問題でクリスマスを祝わないというのはそれはそれでいいのだが、自己犠牲の精神までも忘れてしまうことはないだろう。一年に一度そういう精神を思い起こすことができるならば、それをキリストに思いをはせたうえで、思い起こすことができるならば、それを行う人を責めることなど虚しい。今日の「べっぴんさん」の冒頭で「今日は子供にとって年に一度の大切な日。クリスマスイブです。」とナレーションが入っていたが、それは日本人の勘違いである。クリスマスはキリスト教国では大人にとっても大切な日なのである。べっぴんさんのほうは最後には大人に対する「クリスマスプレゼント」がちょっと「寒い」演出で描かれていたが、そこは目をつぶる。少なくとも脚本家と演出家の「他者の幸福を願う」姿勢は同じイブを描いたとしてもドクターXの対応者たちの卑近さとはまったく対照的なものだった。)


おそらくキリスト教国のJWにとってクリスマスを祝わないというのは、日本人には想像をはるかに超えて試練であったに違いない。だからこそその思いが主の記念式に向くのだろう。しかしキリストの精神を年に一回、敬虔な思いを持って思い起こすのはキリスト教徒にとってのクリスマスも、JWにとっての記念式も変わらない。そうであるならば、クリスマスを祝う人の心を愛(いと)おしく思うのは、悪いことではないはずだ。教義が違うからと言ってまるで「サタン的」だと断じるのは寂しいことだ。しかしWT組織ではクリスマスを祝うというのは「排斥行為」になる。これは豪州王立委員会でのジャクソンの答弁からもわかる。この答弁の中でジャクソンは組織を離れた人がクリスマスを祝うことを悪行であるという見解を示していた。私個人はクリスマスを祝わないが、カトリックやプロテスタントのクリスチャンが敬虔な思いでその日を特別な日だとみなす様(さま)に、神の祝福が訪れるように祈る。