「虚数」と「複素数」の概念 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「虚数」とは数学で出てくる言葉である。二乗してマイナスになるというもので実際には存在しない数字であるというもので、高校数学で出てきた。実際なんでこんなのを学習するのか、と思ったものだが、高校時代に教師は「この虚数という概念があるからこそ宇宙にロケットが飛ばせるんだ。」と力説しておられたのを覚えている。


「虚数とは?」で検索すると数人の方がブログなどで解説していらっしゃる。そこで感じるのは物事を理解するのには、様々な角度を持って全体像を把握することの大切さである。


統治体の言うことをうのみにしたがゆえにとった行動の中には確かに「虚しかった」ものがある。とは言いつつも常に創造者を意識していた生活は、創造者を確信する前とはやはり雲泥の差があるのである。また聖書の言葉に価値を見出し、聖書の中の言葉を指針にしたがゆえに災いを避けることができたであろうこともある。


「虚数」は実際に存在しないものであり、実際に存在するのは「実数」である。そしてこの二つが合わさったものを「複素数」という。


組織に交わっていた頃は「複素数」の世界に入っていたように思える。つまり聖書そのものや、その実際的な価値が「実数」であり、組織独自の統治体崇拝につながる教えが「虚数」であるということだ。


組織にいたからこそ、熱心に聖書を学び、聖書を読み、創造者に対する信仰を深めていくことができた。もし聖書を知らなければ、自分にブレーキをかけることができない人生を送っていたかもしれない。確かに組織崇拝につながる教義もバーターでついてきたが、それがあるからこそ、そして仲間がいたからこそ身についた考え方もある。


多かれ少なかれどの組織宗教にも、この「複素数」の要素はあると思う。その宗教の聖典の中の実際的な価値観という「実数」とその宗教独自の教義や教理といった「虚数」から成り立つということだ。そして「実」の価値を知るのは「虚」があればこそで、「虚」を取り除いたときに『実』の存在価値が浮き彫りになり、物事の全体像を理解できるということになる。したがって、その「虚」の部分を自覚したうえで、その宗教の枠組みを超えたものを手にすることが、「悟り」というものではないかと思う。


「虚」は「虚」ではなくなる。


そしてその「悟り」を得るものは高僧や司祭や牧者であるというわけではない。むしろ特定組織宗教の高位のものは「虚数」の世界に生きているし、その「虚」を強調しなければならないので「悟り」を得ることは難しいのではないかと思われる。実際は名もなき路傍の石のような人が「実」の価値を知っているのではないかと思う。「幼子のように純粋になりなさい。」というキリストの言葉の真髄はそこにある気がしてならない。


中学までは「実数の世界」しか知らなかった。高校に入って「虚数」の存在を知る。それで物事をより知るようになる。しかし日常は実数の世界で生活するが、虚数の概念を知ったがゆえに知る前よりも、それを生かした生活の仕方を知る。しかしそれで高慢になるのではなく、むしろ真理の入り口に立ったことで謙虚になる。


どんな組織宗教であれ、そのヒエラルキーで上位に進むと、子供のような純粋さを失う危険性があるが、そういった立場に就かなくても、そこにいるだけで、間違った「選民意識」を持つことをキリストは諫めたのではないか。