錯覚と思い込み | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

探偵ナイトスクープ。東京に住んでいると、本放送のおよそ3週間後になるのでHPの見逃し配信を見るか、「放送日+ナイトスクープ」で検索をかけるとyoutubeで視聴できる。


12月16日の探偵ナイトスクープの二つ目の依頼で次のような依頼があった。


「お酒のCMで『き~ざくら~、どん』というのがあるがうちの妻が、『どん』のところが『へい』に聞こえるという。調べてもらえないか。」というものだ。


https://www.youtube.com/watch?v=0pijl9k-b_0


音声分析をすると確かにそう聞こえる要素が幾分あるということだった。そういえば以前にも携帯電話の「撮ったのかよ」というのが「エーアイアイ」に聞こえるというのもあった。また名古屋ローカルのCMで「何でも貸します」というのが「えさせも貸します。」と聞こえるというのもあった。


「人によって異なって聞こえる」ばかりではなく「人によって異なって見える。」というのもあるらしい。錯視というものもある。


http://buzzmag.jp/archives/3250 #


ともすれば私たちは自分の感覚というものが絶対的なものだと思うが、聴覚や視覚に関しては、可聴領域や可視領域というものがある。聞こえない音や見えない色というものがある。これらは人間の持つ感覚には限界というものがあり、また人によっても個人差はある。四色型色覚(=スーパービジョン)を持っている人は人には見えない色が見えるという。嗅覚や味覚もやはり鋭い人もいればそうでない人もいる。セロリや鮒ずしをおいしいという人もいればそうでないという人もいる。マッサージをしてもらって、こそばゆい、と思う人もいれば、気持ち良いと思う人もいるので触覚ですらも人によって異なる


こういった個人差を私たちは相手を侮辱するネタに使うとすれば、そこに偏見というものが生まれ、その偏見が争いを生むこともあるだろう。


主観や嗜好というものを個性と片付けてしまうわけだが、五感と同様、これらも結局は脳と直結しているがゆえに、嗜好や論理性に関しても個人差があるのも当然だ。


崇拝や宗教、そしてそれに伴う教理や教義も結局は脳の働きが関係しているので「ある程度」から始まって、「真逆」の相違が出ても当然だろう。これは脳そのものに解釈する限界があるということだ。脳には「可理解領域」とでも呼ぶべきものがあると思う。そしてそれには個人差があると考えてよい。


三位一体論者がこんなことを書いていた。「聖書をどう読んでも三位一体しか考えられない。」 しかし私から見ると「聖書をどう読んでも三位一体はあり得ない。」のである。


また「どう考えても進化論だ。」という人もいれば、どう考えても人間の誕生は進化はあり得ないだろう。」という人もいる。私は後者である。


旧約聖書を読んで「どう見ても残虐な神だ。」という人もいれば「神は愛だ。」という人もいる。


聴覚において、その中に含まれている「母音」の、ある部分が耳を通して脳が解釈するわけだが、それに個人差があるがゆえに異なって聞こえるということは、聖書のある部分が人の理解に影響を与えることもありうるということになる。


「撮ったのかよ」としか聞こえない人が「エーアイアイ」にしか聞こえない人に対し、説得しようとしても無理だろう。逆もまたそうだ。しかしながらそういう「違い」を相手を侮辱する材料にするとすればそのことのほうが問題である。つまり「違い」が問題ではなく、そこで相手を攻撃することが問題なのである。


番組で興味深かったのは、街角インタビューで最初は『どん』と聴こえた男性が2回目、3回目に聴くと『へい』と聞こえるようになったことや、音声を多少デフォルメして、『へい』と聞こえる要素を強調すると、それまで『どん』としか聞こえなかった人も『へい』と聞こえるようになったことだ。


ナイトスクープでは担当探偵が最後に、『へい』と聞こえる依頼者の妻に向かって「お前」呼ばわりした。これは依頼者に対する敬意が欠けた行為である。しかしながら収録会場に来ていた中にも少数ながら『へい』と聞こえる人が事実いた。しかし少数であるがゆえに「変人」もしくは「異常者」扱いされるとすれば、これは気の毒なことだ。


真実は『どん』なのだろう。しかしその中に『へい』と聴こえる要素が含まれていて、そうとしか聞こえない人がいる以上、制作会社の側に問題あるということになる。『へい』と聴こえる人はクレームをつけるためにそうしているわけではない。それがその人の生まれながらにして持っている感覚なのだ。


聖書の解釈が様々に及ぶというのは、もし良心的にその解釈を行っている人の間で見解の相違が生まれた場合、やはりその責は神ご自身に及ぶのであり、神がそういった事態を許しておられるのであるならば、私たちもそういった見解の相違というものを受け入れなければならないと思う。そしてそれは聖書以外の宗教に対する見方にも広げることができるはずだ。それができるかどうかが試されているのではないかと思う。相違を見つけて批判しあうのでなく、相違を踏まえたうえで、それを乗り越え、好意的に見るということである。それが「狭い門を通る」ということではないだろうか。