「宗教」という「神との絆」 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「絆」という言葉が一躍クローズアップされたのが、5年前の震災だった。心の準備ができていないのに突然見舞われた不幸に対し、あまりにも理不尽なことが生じると、常態の精神ではいられなくなる。


一人だけで悲しみの渦の中にいる人を支え、あるいは支えてもらったりする必要性を多くの人は感じるだろう。それが「絆」だ。


今年も熊本地震が生じ、しかも二回も桁外れのエネルギーを放出した自然の力の前になすすべもなく震える多くの人たちがいた。テレビの情報番組ではそういった人たちに対し、しきりに「絆」があることを訴え、慰めようとしていた。それで気を取り直そうとする人たちの姿もいらしゃった。


周囲の気づかいを受け止め、農業を営んでいたおとなしい主婦や、トラクターを動かす高齢の男性が、たぶん普段は口数が少ない人がただ笑顔でうなづいている。


遠い昔において、同じような災害に見舞われた人もいたわけだ。しかしながら彼らにはいったいどれほどの励ましや慰めがあっただろう。電気もなく、マスコミもなく、耐震構造の家もなく、交通もなく、自然に対する知識もなく、ただ暗闇になかで嘆き悲しみ、自然の驚異の前で打ち震える弱い人間の姿がきっとあったことだろう。だれにも頼ることができず、寂しくて、淋しくて、孤独だったのである。


「私が一体どんな悪いことをしたのだろう。」


突然襲う不幸の前で人はたいていそう思う。そして膨大な自然の力を体験すると、それこそ自然が何かの「意志」を持っているかのような思いになり、その自然を怖(おそ)れ畏(かしこ)むようになるのは崇拝本能を持つ人間としてはごく当然のことだと思う。一方で自然の恵みには感謝もする。山野になる果実は芳香を漂わせ、口にするとその甘みに顔がほころぶ。


ほとんど毎日をなんの楽しみもなく、目の前にある山すら越えず生涯を地元で暮らす人もいる。それでも年毎の豊饒の恵みを受け、その収穫を祝い、感謝を表すために祭りが行われる。今とは違って祭りというのは数少ない楽しみであったのだ。


全く聖書の言葉などに縁のない場所でそれでも多くの人は「神」を崇拝し感謝を表し、崇敬する。それは人間の謙虚さの表れである場合もある。そういう心根を創造者は評価されないのだろうか。


パウロはアテネで敬虔な特質を示す人々に心を惹かれ伝道した。これは「名も知らぬ神」を崇拝する人たちの心根を見て取り、その心根を評価されたのだ。であるならばキリスト教が行き届かない地域で「名も知らぬ神」を崇拝する人たちの心根を評価されないわけがない。


また神は人間が保守的であることをご存じのはずだ。人間が伝統やしきたりを重んじるがゆえに秩序を保つことができるということもご存じのはずだ。神が無秩序な神でないということは、無秩序を防ぐための伝統や文化習慣しきたりなどを評価されるはずだ。その保守的な特性を持つように人間を創造されたのであるならば、しきたりから離れられないように人間を御造りになったのだ。


暗闇の中で恐怖におびえる人間が、「絆」として求めたのは神である。テレビ局も、離れた地域の人も、諸外国の人も支えになることはない。それでも何かにすがっていきたいと思う心がある。その必死に救いのための手を差し出す人間を、ただその名を呼ばないとか、その教えを知らないとか、崇拝の方式が正しくないとかというだけの理由で神がむげに振り払うことなどは考えられない。


正直エホバという名ですら正しいかどうかわからない。ヤハウェにしてもそうである。


組織にいるころは地方の会衆でよくかわされた会話は「因習の強いところで大変ですねえ。」というものだった。確かに相手を「改宗」させることが最終的な目標ならばそうだろう。とはいえ、長い間その土地特有の風習やしがらみで生活は人間関係が培われたりしている人にとって「改宗」しなければならないというのは酷な話である。


そういう地方で奉仕するのは、ただ聖書の言葉を伝え、自らがその言葉に従って生活し、「聖書は良い本だ。」という見方さえ持ってもらい、その人たちの祝福を願うのであれば、そこの場所に言った価値はあるだろう。そのために行けばいいのだ。何も「改宗」させなくてもよい。 「キリストの兄弟に水一杯を与えるチャンス」だけを提供するために存在するのであればその地域社会の福祉に貢献することができるだろう。赴任先でできる限り正業に就き、勤勉に仕事をするだけでも訴えるものはあるはずだ。人は正業に対する取り組み方で人を評価する。「仕事ができる人間」は尊敬される。


そうすることでその区域の「十人の義人」になることができるはずだ。それが聖書の見方だ。


「バプテスマを受けさせよう」とすること自体が傲慢な見方なのかもしれない。


弱い人間が「絆としてすがる神」であるならば、その「神」に対する思いをエホバに理解していただくように祈ることが大事だと思う。