互いに愛し合う親密な関係は、家族であれ、知人であれ、尊敬する人であれ、心を温め人生を豊かなものにする。
人間がそのようなものであることが、神が愛であり、人は神に模(かたど)って作られたという信仰が崩れない非常に重要な土台となっている。
しかしながら限りある命しか与えられないのであるならば、その終焉を迎えるときの哀し さは愛すれば愛するほど大きくなる。
でも本当に哀しいのは、逝く側なのだろうか、遺される側なのだろうか。
以前にキュリー夫人という映画に触れたことがあるが、その中で描写されていたのは夫を失い、幸福とは無縁の生活を送るキュリー夫人の姿だった。一昨年のマッサンでは愛するエリーを失ったマッサンの悲しみを描いていた。勿論ドラマゆえに脚色はある。
しかし現実を見渡しても、不慮の事故や事件に巻き込まれたりすることは言うまでもなく、病気は寿命が尽きた場合でも、その人を失った悲しみがいかに大きいのかを知っている。
故人を偲んだりするために様々な番組が組まれたりすることもあるが、別に著名人でなくてもいい。ごく普通にの家庭でも我が子の死という事実を受け入れられず失ったわが子の部屋を亡くなった当時のままにしている親もいる。
遺された側の悲しみが何年も何十年も続く場合もある。今年の3月11日にしばしば聞かれた言葉「もう5年もたっているのに」というのは、他人事であるから、そのように言うのである。実際は「たった5年しかたっていない」というのが悲しみを経験した人たちの心情だろう。
個人が存命中にもっとできたこともあったのではないかと後悔する人もいる。
逝く側も悲しいだろうが、それでも号泣しながら亡くなる人は珍しい。しかし遺された側はしばしば号泣するのはよくある。生きている姿にもう二度と会えないと思うと、寂しくて辛くて、日々を送ることすら苦しい。
神が愛ゆえに人を創造され、人を愛するが幸福だとするならば、死というのは神が人生において非常に厳しい定めを課していることになる。なぜ「愛を持ち、その愛を深め、その愛ゆえに幸福になるように創造されたのか。こんなことなら無感覚、無感動のほうがまだましではないか。」
ある種の信心というのは、死という極めて厳粛な事実に納得するために生じる場合もあるだろう。宗教とは人の悲しみゆえに、そして人間の持つ儚さ、弱さ故に生まれたものではないか。神は私たちがチリでできたものであるのをよくご存じで、その弱さをよくご存じのはずである。
遺された側が、その悲しみに納得するために個人が死後も生きていてほしいとか、また生前できなかった善行を供養という形で示そうとするのであるならば、そのような悲しみの中で生まれた宗教を神が咎めることなどなさるだろうか。
それは愛ある神だと言えるのだろうか。神が愛であると本当に信じているのであるならば、愛ある神にふさわしいお考えをお持ちのはずだ。愚かな私でもそうなのだから。