「今、ここ」で他の人の良いところを見る | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

組織に交わっていたころに数少ない尊敬できる巡回監督が次のような話をしてくれた。


「最近ショッピングセンターで次のような言葉を目にしました。いつもトイレをきれいに使っていただきありがとうございます。』という言葉です。人の心を動かすとても良い言葉だと思いました。 『トイレをきれいに使ってください。』という丁寧な命令文よりも、人の善性に訴えかけ、それに感謝するという姿勢に私たちは奉仕をする際に見倣わなければなりませんね。」


もう15年以上前になるがいまだにトイレでそのような言葉を見るにつけ、その時の話を思い出す。


「人の良いところを見出す。」というのはWT時代に教えられた非常に有益な教訓であると思う。それは時に相手の心を動かすというものだ。


ただしこれはあくまでも相手を「入信させるための技法」として奨励された。何かテクニックのようなものとして受け取られるかもしれない。しかしながら「人々の命を救いたいという愛」ゆえに行うものであるならば、こういった考えに基づいて他の人の善性を敏感に察知することは必要なことだと思う。


「今、ここ」でそれをどのように生かすことができるかを考えることが大事なことだと思う。


人の良いところを見るというのは、入信させるための技法ではなく、その人を尊重するためのものであり、その人の『善性を引き出すためのもの』である。そこに宗教や信条が邪魔してはならないと思う。むしろ宗教をしているならば、そうやって引き出した善性ゆえにその人の幸福を願うことではないかと思う。その人がその人のままで生きていくことを尊重し、その上に祝福がもたらされることを願うことではないかと思う。


今年の3月22日NHKで「ドリームライブが福島にやってきた!」という番組があった。東日本大震災での傷跡が心になお残る東北で行われたイベントであり、その様子を紹介していた。そのなかでブラジルのジャズミュージシャンのセルジオメンデスが地元の民謡少女とコラボをするくだりがあった。メンデスはこの少女の事情を知るために少女の家を訪れた。この民謡少女は震災で自分の愛する家族を失っていた。少女はメンデスに家族の遺影がある仏壇に注意を向けた。メンデスは帽子を取り、鈴(りん)を鳴らし、手を合わせた。感動的な場面であった。


メンデスがクリスチャンがどうかは知らない。進化論者や唯物論者であるかどうかは知らない。しかし仏教徒だとは思えない。それでも「宗教が違う。」「信条が違う」とか言ってもしその少女に促されたときにそれを理由に断っていたとしたら、少女はどんな思いになっただろう。


もしJWならば、何のためらいもなく拒絶しただろう。しかしその時に相手がどう思うか、どう感じるかはあまり考えない。


宗教というものが人の心を育み、他の人の心を慰めるためのものであるならば、選択肢の中でも最も相手の心を慰める方法を選択することが、大事なことではないかと思う。メンデスが手を合わせたというだけでだれもメンデスが仏教徒になったとは思わない。しかしここで手を合わせることは、異教の神を崇拝するのではなく、見ている人の心を温めることが目的であるようなものだった。


ナアマンはどうだったのか。エリシャによって自分の病をいやされ、エホバを賛美するようになったが、故国に帰ったときにたとえ偶像に身をかがめるとしてもそれを許してくれと祈ったではないか。


「どうぞ主(エホバ)がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主(エホバ)がその事を、しもべにおゆるしくださるように」。


ナアマンの場合、問題視されたのはあくまでもプライドゆえに預言者エリシャの祝福を得そこなうことの愚かさだけであった。彼の立場や置かれた状況をエホバは祝福されたのではないか。異教徒の主君に仕えつつナアマンは「その時、そこで」居場所を見出していたのではないかと思う。


日本に観光に訪れる欧米人が神社仏閣などを訪問し、日本人のように神社の本坪鈴をガラガラ鳴らして手を合わせている様子を見る。祈る対象が何であるかはわからない。しかしその時に敬虔な思いを持ち、目に見えぬ神に何かを祈っているとするなら、その思いを神はくみ取ってくださるのではないかと思う。そういう神であってほしいと願うのが信仰心ではないかと思う。それが神へとりなしを願う気持ちではないか。


とかくエホバの証人は人に見せる信仰を強調していたように思う。だからどうしても外見を取り繕うようになる。特権などもその一つである。しかし人に見せる信仰などは、容易に偽善的になりうる。でもそれはどんな宗教でもありうるのではないだろうか。仰々しい儀式や圧倒するような建築物も見せる信仰かもしれない。でも簡素な装いで、簡素なたたずまいで神を崇拝できないわけはなかろう。